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肉を食う

キャンプまであと2日。
準備でもっとも手のかかるのが
食材の買出しである。
今日は29日(つまり「肉の日」)。
大安売りの肉を求めて早朝から
淡路島の南へと車を走らせた。

今日買ってきたのは
牛肉6㎏ 豚肉4㎏ 鶏肉3㎏
ミンチ肉2㎏ ウインナーなど3㎏
しめて18㎏
まだ買い足しもあるだろうが
とりあえず肉の確保ができた。
肉づくし
これらを使って
トンカツ すき焼き 焼肉
から揚げ 照り焼き
スープなどを作ります 


これらの食材で
4泊5日(全10食)
キャンプ参加者18名、スタッフのべ20名の
すべての肉料理をまかなう。

私たちがキャンプを打ち上げるまもなく
8月10日~18日までの日程で
KGファイターズの夏合宿がはじまる。
合宿中の選手たちへの
私もメンバーのひとりである
ファンクラブ有志からの肉の差し入れは
10数年続き恒例の行事になりつつある。
今年の陣中見舞いには
牛肉100㎏ 豚肉200㎏ 鶏肉100㎏を贈る。
200名を超える大男たちは
これらを1食でペロリと食べてくれるのだろう。

福島の子どももファイターズの選手も
肉をたくさん食べて
強く 賢く 大きくなれ!
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だるま森

昨日久しぶりに
だるま森+エリコの公演を見てきた。
場所は淡路島の首都とも言うべき洲本市。
招いたのは「NPO法人IIYO楽園」である。
IIYO楽園(煙山亨理事長)創立2周年
「NPO法人テンペラーレ」への組織改変
事務所の淡路市から洲本市への移転。
この3つの祝いが重なって
だるま森+エリコを招いての
記念公演とあいなった。

出し物は「だるま森の楽器屋さん」
いやあおもしろかった。
歌あり踊りあり人形劇ありゲームありお笑いあり。
ストーリーと言えば
森の中の青虫 カッパ サルなどが
自分風の楽器がほしいと願い
それを叶えてやる趣向で
劇が終われば舞台装置はそのままに
たちまちそこへ観客が上りこんでの
ワークショップの場となり
劇中の楽器作りを私たちも体験できる仕組みだった。
おもしろそうでしょ?

だるま森さんは
画家である。劇作家でもある。音楽家でもあるし歌手でもある。
発明家で楽器制作者 演出家にして役者 ダンサーでもあり
くぐつ師で人形作家 絵本作家でパーカッショニスト兼デザイナー。
このように凡人には何者とは名づけられぬゆえ
人は彼のことを「総合工作芸術家」と呼ぶ。

彼の舞台の面白さは
これらすべての才能を
舞台の奈落に投げ込んで
大きなスプーンでグルグルグルグルかき回し
なめらかなペースト状の才能から
ステージ上にすべて手作りの
音楽 セリフ 舞台衣装 背景画 楽器
人形 奇声 ダンス 絵本 キツネ スイカ お面
芝居小屋 だるま森とエリコまでが放り上げられ 
踊りだす 歌いだす 演奏しだす
ほえだす 笑いだす楽しみである。

見たことのない人必見ですよ。
だるま森
これがだるま森ワールドです。
何もかもすべて手作り。

スイカ
ワークショップはスイカシェーカー作りでした。
私のスイカはこんな感じです。
「いい感じですね」とだるま森さんからほめてもらいました。

スイカたち
スイカを作る課題を与えられても
これほどさまざまなスイカが生まれます。
人は1人ひとりが独特で
違っているからおもしろいのです。
ガザ地区ばかりでなく
世界の紛争地域で
だるま森さんに公演してもらい
この当たり前のことを
再確認してほしいですね。

先生はロック

3連休を利用して
ダンスの練習をした。
先生はロック。
まだ24歳の若さである。
細身の柔軟な体
パワフルなステップ。
はじめて私たちの創作ダンス
「凪」を見せてもらった。

「凪」は「奇跡の木」の英語版アプリを作るにあたり
作曲家の渕上さんに制作をお願いしたものだ。
曲のイメージを渕上さんは以下のように説明してくれた。
「津波で激しく荒れたあとに訪れた
静かな静かな海なのです」と。

「奇跡の木」の以下の段落に
対応すると私は勝手に解釈している。
「優しさが海なら 猛々しさも海である。
生と死 愛と憎悪 善と悪 秩序と無秩序。
海の中にはこれらが未分化のまま溶け合っている。
潮の苦さはここに由来するのかもしれない・・・」。

ロックはダンス創作にあたって
「凪」に歌詞をつけるよう要求した。
私は詩を書き
ロックに踊りをイメージしてもらった。
ダンスを見てなるほどと思った。
彼が作ってくれたダンスは
フラダンスのように
すべての所作に
意味があった。
静かな海 (640x361) 小
この写真は
「みんな集まれ
静かなかな海。
漕げ光
明日の島へ]
の部分の踊りです。

決めのポーズ
これはダンスの決めポーズ
「太陽は ホイホイホイ
子どもの未来」のところです。
一緒に踊った子どもたちは
それぞれの決めポーズを作っています。


キャンプ4日目の日曜日に
ロックにもう一度来てもらい
みんなでダンスの指導を受ける。
さてどうなりますか?
7月31日からはじまる夏のキャンプの
メインイベントのひとつだ。

我々はどこへ行くのか

まだまだ先と思っていた夏のキャンプまで
あと12日になった。
建ててから13年が経過し
あちらこちらガタが来ているログの修理が
この間のおもな仕事であった。
それも何とか片付き
子どもを迎えられる環境になった。

その作業と並行して進めてきた
小説を書く準備も大詰めである。
3~4年かけて資料を読んだり
小説のいくつかのシーンを習作したり
詩や短歌にまで範囲を広げ
文体を探し続けたりした。
それらもようやく一段落して
機が熟した感じである。

これまで私が書いたもっとも長い作品は
400字詰め原稿用紙約1600枚である。
これは角川書店に持ち込み
およそ半分の量に(泣く泣く)圧縮させられ
ようやく出版にこぎつけた。
今回の作品はこんなにも長くならない。
しかしむずかしいテーマを組み敷けず
途中で挫折してしまう可能性は大いにある。
私にとって最後のチャレンジである。

このような意気込みをもつたびに
今更なぜ書くのかという疑問が起こる。
70歳のお前がもういいではないか。
30年近く小説を書いてきて
才能のないことはお前がいちばん知っていよう。
だれも書いたことがない
まったく新しい人間を描き出せないなら
どこに出版する意味がある?
私を苦しめるのはこのような問いだ。

1897年ゴーギャンは
自身最後の作品と見定めてある絵を描く。
”我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこに行くのか”
これがそのタイトルである。
作品を完成させたのち
ゴーギャンは砒素で自殺を図るが失敗。
1903年心臓発作で生涯を閉じるまで
ゴーギャンは南の島で失意の日々を送った。

凡庸な自分を天才画家に議するつもりはないが
私が最後の作品に選んだ題は
”我々はどこから来たか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか”である

絵を描き終えたゴーギャンは
自分はこれ以上のものを描けないし
描く必要もないと思い自死を選んだ。
私もゴーギャンにあやかり
同様の覚悟で望むのなら
最後の作品を書く意義があるかもしれない。
工事
写真でもわかるとおり
2つある小屋をつなぐ
デッキを張り替えました。
まだ工事すべきところは
残っていますが
春キャンプまでには
全部仕上げる予定です。

ダンスレッスン

7月31日~8月4日まで
4泊5日の予定で夏のキャンプを行なう。
今回の参加者は
福島から来る4家族12名。
西宮在住の福島からの避難者2家族6名。
合計で6家族18名のキャンプとなる。

12年の夏からスタートしたキャンプも
13年春・夏、14年の春と続き
今夏のキャンプで5回目である。
これまでの参加家族は累計で26家族。
参加人数は70名を超えるだろう。
最初に13歳でキャンプに来た子どもは
来年には高校受験に挑むことになるのだ。

今年のキャンプの概要である。
7月31日 福島からの参加者が伊丹空港に到着
       東神戸病院で全員が被ばくの程度を測る健康診断
8月1日  鳴門のうずしお観潮
       ウエルカムパーティー
8月2日  海水浴と海遊び(スイカ割り・ビーチフラッグ大会)
      手品教室
      花火大会
8月3日 プレパーク「冒険の森」
      オリジナルダンス「凪  <漕げ光>」レッスンおよび収録
      キャンプの旗作り・植樹祭・ミニコンサート
      フェアウエルパーティー
8月4日 伊丹市昆虫館見学
      福島からの参加者空路福島に戻る

かなりハードのスケジュールだけれど
ジョイントチームメンバーに
ボランティアを加えた13名で
力を併せて頑張ろう。

キャンプのトピックスは
オリジナルダンスレッスンである。
これから皆でダンスを覚え
ダンスの和を周囲に広げ
原発事故は終焉したと思っている人にも
被ばくの恐れを神経質な反応と思っている人にも
精一杯生きる福島の子どもを「不幸」という偏見で見る人にも
夢や大きな目的を持っている
ありのままの福島の子どもの姿を伝え
彼らの将来への支援を訴えようと思っている。
昼寝
ダンスの映像には
キャンプ地のアイドルであるパンダも出ます。
今日は仕事をする私の横で
のんびり昼寝です。


 

焼身自殺

集団的自衛権の容認に反対し
焼身自殺を図るという事件が起こった。
東京のど真ん中 新宿での
白昼の出来事である。

事件の性格としては
三島由紀夫の割腹自殺にも匹敵し、
米の同時多発テロの
燃えながらビルから落下する人間を
思い起こさせる出来事であったのに
私の衝撃はさほど大きくない。
そちら方にこそ私は衝撃を受けた。

学生時代には
ベトナム戦争に抗議する
同国の僧侶の焼身自殺が相次いだ。
そのときのショックと怒りは
今回の何倍もあった。
自殺を図ったのは同じ日本人であり
しかも私自身も関心を寄せ
自分の問題として
強く反対している政策への
抗議の自殺であったのに・・・・・・。

この落差は私の中でなにかが劣化したためであろう。
なにが壊れたのか。
おそらくは共同体意識が
猛烈なスピードで希薄化しているのだろう。

死を人称でとらえる考えがある。
一人称の死としての 自分の死
二人称の死としての 親しい人の死
三人称の死である 直接関係のない人の死
このうち一人称の死は
自分で体験できないものであるため
もっとも身近に感じられるのは
二人称の死と言われる。

共同体への帰属意識が強固なうちは
見知らぬ他人の死(三人称の死)でも
身内が亡くなったような喪失感を覚える。
たとえば地元の居酒屋の主人が死んだり
故郷の高校の先生が亡くなったり
好きな歌手・俳優などの死がそれにあたる。
政治家たちが「日本のために」と唱えるのは
この帰属意識を思い出させようとするためである。

かつては海を越え
ベトナムの僧侶が焼身自殺たことに対してさえ
アメリカの侵略戦争への反発によって生まれる
連帯感によって痛切な痛みを感じたものだ。
しかし焼身してまでの日本人の抗議に
学生時代のように私は心が揺さぶられなかった。
それほどまでに日本は疎遠な存在になったいるのだ。

防衛省の資料によれば
2003年にはじまったイラク戦争において
米の要請によりイラクに派遣した自衛隊員5500人のうち
25人が日本に帰ってきてから自殺している。
イラク派遣の米兵の多くが語ったように
「何のために闘うのかわからない」目的のない戦争が
このように多くの自衛隊員を死に追いやったに違いない。
これが集団的自衛権の本質である。

国内でさえ共同体意識が希薄であるのに
アメリカへの攻撃を日本への攻撃と
私たちは実感できるだろうか?
そのような切実な一体感を欠いたまま
目の前にいる子どもを殺すのは
耐えられないことに違いない。

拙速に進められた憲法解釈変更の過程で
このような死への想像力があったとは思えない。
25人の自殺者も靖国に祀られるのかという疑問と共に
知識人も含め日本全体の焼身自殺事件に対する
あまりにも無関心な態度に私は戦慄を覚える。
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