スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

HIP-HOP逃げた

4月も今日で終わり。
今月を一言で締めくくれば
命がざわついた月だと言える。
このようなキーワードが浮かんだのは
4月10日に生まれてはじめて人工呼吸を経験し
投身した人の命と激しく接触したからか。
私にとってそれは圧倒的な出来事であった。

私は人工呼吸を人に施したこともなく
どうすればいいのか皆目わからなかった。
船員が腹の上に両手を重ね
それを強く押すのを見ているうちに
無意識の模倣で私の体は動いていたようだ。
自分の番が回ってきたとき
苦もなく体が反応した。
相撲やサッカーを見ているうちに
自然に同じ動作をするのと似た経験か。
言葉や理屈はなく身体動作だけがあった。

安否を問うことを「問安」というらしい。
4月10日の事件では私は「問安」をくりかえした。
「大丈夫か」「目を開けろ」「水を吐き出せ」
「眠るなよ」「呼吸をしろ」など。
私は「問安」を繰り返しながら
見知らぬ人の体を触り
人工呼吸を続けた。
言葉と身体動作は完全にシンクロしていた。

普通の状況なら
私と他者の間には越えられぬ壁がある。
相手の体に触れるなどもってのほかで
隔たった安全地帯から
無害な言葉を相手に投げ
返された言葉を恐る恐る受け取るだけである。
しかしその瞬間「私」は消え
他者と一体化していた。
これがコミュニケーションの原形に違いない。

類似した経験が阪神大震災でもあった。
遺体安置所にいた私は
友人ばかりでなく
次々運ばれてくる亡骸を運び入れ
理科室の机に安置する作業に追われた。
丸まって亡くなった友人を納棺しようと
棺に沿って体を伸ばしかけたとき
運悪くおにぎりが配られた。
前夜から何も食べていなかった私は
躊躇なくおにぎりを鷲掴みにし口に運んだ。
私と死者を隔てる境界は崩れ
自他のない真空状態で
日ごろ過敏な衛生観念も吹き飛んだ。

そんな4月の最後にふさわしい出来事があった。
27日に畑仕事をしていた私は
重い砂袋を抱えたまま斜面を滑り落ちひざを痛めた。
今日病院に行くとじん帯が切れていた。

4月からはじめたダンストレーニングも
当分お預けかもしれない(トホホホホホホ)。
ああムーンウォークに続きHIP-HOPが逃げていく(無念)。
ダンス
2枚のDVDを買って
HIP-HOPダンスからはじめていました。
ステップタッチ クロスステップまで進み
ノリノリで楽しんでいたのに。
陽性の私はダンスが大好きです。
ムーンウォークはできてるつもりが
どうも周りの評判が良くないのです。
スポンサーサイト

74歳くらいまでは・・・・・・

人が家の歴史に関心をもつには
一定の周期ときっかけがあるようだ。
私がはじめてルーツに関心を向けたのは
長男が生まれる前後である。
そのときには母の家(野口家)の歴史を調べた。
理由は簡単である。
会津藩士だった母方には詳細な家系図と
先祖たちの苦難の歴史を記した 
数冊の本があったからである。

昨年長男に子ども(私にとっては孫)ができ
今度は息子が家の歴史を独自に調べはじめた。
東京という地の利も手伝い
長男の探査は私より徹底していた。
ジイチャン(長男にとって曾祖父)の足跡を追う過程では
私を東京に招き一緒に郵船にまで足を運んだ。
ひいジイチャン(長男にとっては曾曾祖父)の時には
曾曾祖父をテーマにブログを書いている人物と接触し
情報の交換までする熱の入りようだった。

この長男の熱気に感染し(孫の誕生も追い風となり)
私が家の由緒に再び興味を抱きはじめた矢先
姉から父方の歴史を記す資料が送られてきた。
長い間父方(木田家)の歴史はナゾであり
レジェンドだけが私たちの間で生きていた。
私の家族で語られていた神話は
以下のようなものであった。

父の父(父方の祖父)の実家は
長野県で造り酒屋を営んでいた。
幼少よりの飲酒癖がたたり
15歳のときに祖父はアル中になり
貨物船でアメリカに渡ることを決意する。
渡米と同時に祖父は密入国で逮捕されたが脱獄。
逃亡中に校長先生に助けられ
教育まで受けさせてもらい牧師になった。
数年を経て祖父たち家族は(その中に父もいる)
日本語より英語に馴染んで帰国したが
日本は戦争前夜の様相である。
祖父たち牧師にもほどなく弾圧がはじまる。
しかし祖父は反戦を貫き投獄の憂き目にあう。
一方私の父はNHKの対米謀略放送にかかわり
敗戦後東京ローズの一員として米軍から追われ
34歳という若さで客死した、というのが伝説だった。

姉から送られてきた資料と突合せ伝説を検証してみた
・父方の家は長野県上水内郡信濃町落合で造り酒屋をしていた
・そこで生まれた祖父は2度日本を脱出しようとした
 1度目は米国貨物船で(1882年・日本の官憲に見つかり未遂)
 2度目は英国船の下級船員となりカナダへ(1888年)
 上陸直後船員仲間と脱走し3年間逃亡。
 アメリカに逃げ延び校長先生に救われる
・祖父は平和主義のクエーカー教徒の牧師であった
・治安維持法で祖父は逮捕されるが74歳と高齢であったため
 執行猶予に減刑され投獄は免れた

このように家族の来し方を振り返る楽しみは
私や息子・娘が時に応じて下した英断が
実は親たちの無言の影響によって
その道を選ばされたと気づくことである。
私は親族たちとのそのような重なりが好きであるし
数々の偶然の一致を祝福したい気になる。
思いつくままにいくつか挙げてみたい。

10年前のピースボートの旅は
船で密航した父方の祖父
郵船の船長となった母方の祖父の
船好きDNAに由来するのではないか?

ピースボート船上での運動会では乗客を
会津藩の軍政により白虎・青龍・朱雀・玄武に分けた。
私は白虎であったが私の曾祖父は朱雀の幹部。
城明け渡しの交渉役であった。
ちなみに運動会では朱雀の隊長を
仲良しの船友(通称大ちゃん)が務めた。
これを偶然の一致と言わず何と言おう。

ピースボートは2005年4月にパナマ運河通過。
日本船が最初にパナマ運河を通過したのは1914年。
そのとき船長だったのが母方の祖父(野口鉄彦)である。
101年後に孫の私が同じ運河を通過する偶然はすごい!!!

大嫌いな政治(学生運動)に瞬時関わったのは
100%私の自由意思と思っていたが
これも父方の祖父の指し響きかもしれない。
それにしても76歳のジイチャンが
投獄覚悟で「アメリカは私の恩人です」と
言い切ったのはたいしたものだ。
私も74歳くらいまでは
不撓不屈の精神で生きなくちゃあ。
パンダ
母方の祖父の一番の思い出は
ザクロの木から下りれなくなったネコを
傷だらけになりながら救出してくれたことです。
これが私のネコ好きのきっかけかも。
今日もパンダは愛らしい


2914年春 キャンプ報告書

春のキャンプ報告書ができつつある。
今回の私の担当は
編集後記である。
昨夜書き上げたものを
アップすることにした。

2014年春キャンプでも、
東神戸診療所で郷地先生に検診をしていただきました。
今回は昼一番で診療していただけるとのことで
キャンプ初日に健康診断の予定を入れました。
気の重い検査をさっさと済ませ
残りの時間を存分に遊ぶためです。

3時間余りかけて
尿検査・エコーによる甲状腺検査・
心電図・血液検査を受けました。
結果を聞くときがキャンプ中で一番緊張します。
今回も全員異常なしで一安心です。

検査は、午後の休診中に特別にやっていただいたため
診療所にいるのは私たちだけ。
シーンとした診療所の前にある公園からは
春休みを迎えた子どもたちの
はじけるような歓声が届きます。
遊びに興じる神戸の子どもたちは
目の前の建物で同年輩の児童が
被ばくの恐れに耐え
検査を受けている姿など
想像もつかなかったでしょう。

子どもばかりでなく大人も同様です。
被ばくによるガンの危険性ばかりでなく
廃炉作業中のほんの少しの手違いで
世界を滅ぼす致命的な事故が
今にも起こると怯え暮らす人々が
この日本にいるなんて想像外のことなのです。
この深い深い断絶が、日本の今の姿です。

私たちは、福島の人々との交流によって
せめて一時なりともそのような人々に
心を寄せることができればと願い
キャンプを行なっています。

キャンプ中に作った一首は
私の思いの一端を代弁しているかもしれません。

メルトダウン
コバルトの夜
水に飢え
過去の声と和し
水ヲ下サイ   

たった1人の植樹祭

キャンプの最終日が
雨にたたられたために
「あいうえお農園」の植樹祭はお預けになった。
キャンプ終了から数日たって
たった1人で植樹祭をした。

植樹祭をはじめたのは
2013年春のキャンプからである。
2013年春「あ=アーモンド」同年夏「い=イチジク」
2014年の春は「う」だから「ウメ」となった。

農園にはすでにウメがあるけど
老木なので若々しい木を植えることにした。
アーモンドもイチジクも
今のところ順調な生育ぶり。
現在キャンプに参加している子どもたちが
高校生になるころには
どれもりっぱな実をつけているだろう。
ここで育ったおいしい果実を
大きくなった子どもたちに届けることも
私たちの目標なのだ。

春のキャンプで残っているのは
「キャンプ報告書」の制作・印刷。
このキャンプも多くの方々にお世話になった。
今日から報告書作りがはじまる。
いいものを作って
早く支援者のみなさんい届けなくちゃあ。
植樹祭
誰かがシャッタを切ったのだから
たった1人ではないのでしょうね。

ジャガイモ
無農薬野菜を作る「ワクワク農園」は
「あいうえお農園」の隣にあります。
福島への出荷を待つジャガイモ。

タマネギ
淡路名産のタマネギは
福島の人にも人気です。

ニンニク
生育のいいニンニクも送ります。
パンダ
子どもが苦手で
キャンプ中は逃げまわっていたパンダも
夏キャンプまでのしばしの間
わがまま放題の優雅な日々を送っていますよ。

奇妙な一日

それは若い漁師の来訪からはじまった。
彼が魚を売り込みにくるのは
これで3度目である。

最初は大ダコを勧め
次はイカナゴだった。
どちらも断ったのだが
昨朝はトロ箱に入れた数種の魚を見せ
買ってくれとせがむ。
根負けした私は
財布のひもをゆるめることにした。

ポン級(30cm以上の魚)のアイナメに
グロテスクな模様の見慣れぬ魚。
2匹で千円だと言う(安いのか高いのか?)。
全身に赤と黒のタトゥーを入れたような
気味の悪い魚の名前を聞くと
彼は知らないと答えた。
近所の漁港で漁師見習いをしているようなのだ。

その日は診察があり
船で明石に渡り
検査を受けたあと
本を買うために三ノ宮にでた。
淡路島にも明石にも大きな本屋はなく
読みたい本は町で手に入れるしかないのだ。

帰りには明石港発15時の船に乗った。
いつもの「まりんふらわー2」はドックに入っていて
代替船が待っていた。
船内はお座敷列車風レイアウト
甲板が低く乗降口と海面の差は小さい。
うららかな春の陽気で波はとても静かである。
「明石海峡銀座」もその時刻は閑散としていた。
この気象条件などがすぐに起きる事件で有利に働いた

乗客は40名足らず
最前列の乗降口が見える位置に車椅子の中年男性がいた。
私は海の見えるソファー席に座った。
乗降口が見えたもう1人は松葉杖姿の高校生である。
上甲板で男性が短い船旅を楽しんでいようとは
その時点ではだれも知らなかった。
乗降口を見渡せる2人が目撃者となった。

事件は港内を離れ数分たったときに起こった。
車椅子の男性がなにやら叫び
高校生に運転席に行くよう指示した。
本を読んでいた私に聞こえたのは「人が・・・」だけであった。
高校生はギブスのない足一本で
猛然と階段を駆け上がっていった。
高校生と共に2階から現れた半信半疑の船員に
車椅子の男性が大声で説明し
船内にいる全員に何が起こったか明らかになった。
年老いた男が乗降口を開け投身自殺を図ったのだった。

船外に出た船員の足元だけが
窓の向こうを移動するのが見えた。
私は上甲板に駆け上がった。
ブイを外そうとしている船員の頭に
何か手助けできることはと聞いたけれど
彼はブイを抱え狭い甲板を伝って
無言で船首に向かった。
乗降口と同じ右舷側の海面にふいに帽子が現れた。
船員と私が同時に「帽子」と叫んだ。
その直後顔を下に両手を広げた痩せた体が
船首の先の波間に揺れているのが見えた。

船員が長い柄のついた鉤で男を船に引き寄せ
その場にいた男たちが力を合わせ
船内に引きずり込んでからは
だれがだれに指図をするでもなく
まるで能率のよい機械のように
男を救う活動がスムーズに進行した。
私は船員と交代で人工呼吸を受けもった。
服を脱がせるもの 救命胴衣で枕を作るもの
濡れた体を拭くもの 男の荷物を捜すもの 
極めつけは上甲板にいた船客だった。
「明石港に救急車を呼んでおきましたから」
この声で私は助かると確信した。

無我夢中の行為に
雑念が混じりはじめたのは
入水した男性の生の兆しによってである。
前歯はすべて抜け落ちた彼は
年がいって見えるけれど
私と同年代に違いない。

水を吐くと男の体内で何かがざわつく気配がした。
うつろな表情に朱がひと色差した。
口の奥に無音の叫びがぶらさがった。
あごの骨がかすかに動いた。
視線がゆっくり宙を滑った。
体全体が見えない何かを吸い込んでいた。
それらはかすかなかすかな生のサインであった。

私は男の頬を叩き「目を覚ませ」と言った。
しかし心の中には発した言葉への疑念があった。
よみがえれと人工呼吸しつつ
生還が男を幸せにする確信はなかった。
数時間後に我に返り
死にそびれた男の無念と自嘲を
私は共有することができた・・・・・・。
立場を変えた老いと老いとの悲しい格闘だった。

家に帰ると筍料理と朝の魚が待っていた。
図鑑で調べると魚は「ホウボウ」だった。
大きな胸びれの下に足のようなものがあり
それで海底を歩きエサを探すらしかった。
淡白で上品な白身魚で
抜群にうまかった。

春は外にもあり
満開の桜が夜の底を桜色に染めていた。
男がホウボウのように海底を歩く姿を幻視した。
その魚が浮き袋をつかって発するとかいう音は
人工呼吸のたびに男から漏れ出した
あのざわつきのようなのだろうかと思った。
男は死ぬ前に港のサクラ見ただろうか。
もしそうならせめてホウボウを食べてから死ねばいい。
奇妙な一日を私はそう締めくくった。

老いる困難が夜桜を散らしていた。

此の生(よ)のはてに桃植ゑて

福島の子どもたちを送り出したとたん
熱がでて風邪を引いたようであった。
久しぶりに1日半完全休養した。
寝床ではもっぱら短歌の本を読んだ。
5年ばかり前から私は
短詩型に親しむようになっている。
学生の頃意識的に遠ざけた本たちである。

塚本邦雄、岡井隆、寺山修司、近藤芳美、岸上大作
中城ふみ子、春日井建、斉藤史、河野裕子などの作品と
私は無縁であったわけではない。
これら綺羅星のような詩業に
親しみかけては遠ざけ
魅入られそうになっては否定し
ついに扉を閉ざしてしまったのである。

激しい学生運動の時代である。
運動に関わったものは
ほとんど例外なく
「自分は死ぬかもしれない」という覚悟を
どこかで結んでいたに違いない。
そして当時の短歌流行りの一因に
死へ傾斜するニヒリズムが
無関係だったとは思えない。

57577の古典詩形は
特攻隊も導き寄せた
アルカイックな儀式の
太鼓の響と私には思えた。
私は警察から虐殺されるかもしれない恐怖を
短歌的叙情の助けをかり
克服したいたいとは思わなかった。

死んでもしかたがない
逮捕され一生獄につながれることもあるだろう。
私のこの暗い決意を支えたのは
どんな理念・心情・価値観だったのか。
アメリカで生まれ幼児教育を受けた父
西洋音楽を学びピアニストになりたかった母。
この2人が作り上げたクリスチャンホームの醸す
個人主義と合理精神とモダニズムが
死と対峙できるほど
私のうちで強く育ったとは思えない。
それではなにか。
宗教ではないことは確かだ。
ではなにが私を支えたか。

こんな問いを発したのは
はじめてのことだった。
そしてあと何年もない人生で
私が問い続けるべき課題であるように
思えるのであった・・・。

嗚呼それにしても、
あのとき短歌にもっと親しんでおればよかった。
この私の嘆きは
読む者を叙情に溺れさす短歌のリズムが
特攻隊の心のよりどころとなったという
愚かな誤読への後悔でもある。

もし学生時代にこの短歌を知っていれば
私の人生は変わっていたかもしれない1首がある
少女死するまで炎天の縄跳びのみずからの円駆け抜けられぬ
(塚本邦雄「日本人霊歌」より)
すごい!すごい!まったくすごい!

鬼の霍乱の病床で読んだ岡井隆さんの歌から1首。
生きがたき此の生(よ)のはてに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり

短歌にさらに分け入り
その精髄をつかむことも
学生時代の覚悟に
迫る道かもしれないと思いつつ
今日も短歌を読んでいる。

キャンプ 最終日

4泊5日のキャンプが終わった。
17時過ぎから
福島空港到着を知らせる電話が入りはじめ
すべての家族の無事帰還が確認できた。

1人の病人もケガ人も出さず
キャンプに参加する前より
元気にたくましくなって福島に帰ってもらう
をテーマとして取り組んだので
春のキャンプは成功だったと言える。

今回のキャンプも
多くの人に支えられ実現した。
募金総額は40万円を超え
そのお陰で
あまり経費をかけずに
キャンプに参加してもらうことができた。

皆さま、いつもご支援いただき
ありがとうございます。
なるべく早く
「2014年春キャンプ報告書」を仕上げ
皆さまにお届けしたいと思っています。
またこれからもご支援いただけますよう
どうかよろしくお願いいたします。

キャンプ5日目は
須磨海浜水族館で遊んだ。
昔に比べ
海洋動物の種類も量も増え
大人も子どもも楽しめる施設になっていた。

水族館
エントランスには
巨大な水槽があり
子どもたちの心を一気に
海底にさらっていきました。
イルカ
いるかのショーは
子どもたち以上に
私自身が興奮しました。
イルカが垂直に落下するところを
カメラは捕らえています。
ラッコ
ラッコは昼寝中。
人間のような眠り方が
おかしかったです。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。