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にもかかわらず笑う

電気の使用量100kwhを切るのは難しい。
11月に110kwhまで下がったけれど
先月は114kwhに戻った。
最後の手段としてエアコン関係の
4つのブレーカを落としてみた。
その効果がどうでるか
1月分の電気料金が楽しみである。

今年は例年になく寒い。
耐寒のためには工夫が必要である。
ニット帽・パッチ・レグウォーマー
ホッカイロ・湯たんぽは例年通りであるが
やり方を少し変えた。
ホッカイロは腹と背中両方に貼り付け
寒さを挟み撃ちにして撃退。
そして湯たんぽを足元に持ってきた。
これがなかなか暖かい。
足裏3つ分のオンドルというところだ。

それでも耐えられないときには
ガスで湯を沸かす。
もうひとつ画期的な変革は
部屋の中でも吐く息が白いくらい
温度が下がるなら
近くのショッピングモールか
図書館に行くことにした。

図書館は私の家から
徒歩6分程度のところにある。
もっと近いのは2分もかからない距離の
「阪急ガーデンズ」というショッピングモールである。

そこは天井が高く開放感があり
阪急百貨店のほか家電量販店 書店 スーパー シネコン 
ユニクロ HMV NHK文化教室 携帯電話ショップほか
約30の飲食店が入った
西日本最大のショッピングモールである。

暖かいし 静かだし 清潔で
便所もたくさんあるし
おまけに皮製の大きなソファーが
そこかしこにおいてある。
私は西宮ガーデンズで2時間ばかり過ごし
図書館にも2時間ほど滞在し
本を読んだり、仕事をしたり。
極寒の日の寒さ対策は
これで万全である。
9

ここが私の応接室です。
このようなスペースがいっぱいあるのだ。

私はそれを「避難する」と呼ぶ。
「今から図書館に避難します」と。
そのように呼称するのは
「お墓に避難します」と言い残し
自死を選んだ福島のおばあさんの
高貴な精神にあやかりたいためである。
それにしてもこのユーモアと
批評精神は鮮やかではないか。

ドイツではユーモアーを
「にもかかわらず笑う」と定義している。
「死を前にしているにもかかわらず笑う」ためには
身近な人間に対する思いやりが必要である。
私の寒さからの撤退は
おばあさんのような大きな覚悟ではない。
しかしながら最後の瞬間まで
「にもかかわらず笑う」精神を
失いたくないと思っている。

私の正体検査は
来週の木曜日に入院
金曜日に退院と決まった。
ガンである確率は50%らしい。
フィフティー・フィフティー
丁か半かのコイントス。
私は「表(おもて)」をコールしてみよう。
詳しくはいずれまた。 
201301041558000.jpg

石油ストーブのある淡路のログが
パンダも大好き
   
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ワクワク農園活動開始

淡路島のログハウスが建つ土地は
大学時代の友人が所有するものであった。
彼はそれをお姉さんの子どもである
いとこから譲り受けた。

はじめてそこを訪れたのは
春先のうららかな日であった。
海から10mばかり駆け上がった高台にある
廃屋を残す地所からの眺望はすばらしかった。

播磨灘をはさんで
対岸には加古川が拓け
右に家島群島が散らばり 
左に小豆島の最高峰
「星ケ城山」が威容を見せていた。

岸近くには海苔の養殖筏が流れ
光の粒を撒き散らした水路を
大小の船があるいは沖を
あるいは陸を目指して行き交っていた。
最初の訪問でこの地に魅了され
私たちはそこにログを建てる決心をした。

先週の3連休に
すでに13年の歳月が流れたログハウスに
やや奇妙な取り合わせの8人が集まった。
私を含めて3人は福島の支援をする
ジョイントチームのメンバー。
別の3人組は最近福島から避難した
母と2人の子どもたち。
それにチーム新加入の大学時代の友人と
ピースボートの仲間を加えた計8名。
私を除いて初対面も何組かあった。

海に面したこの土地には
実はもうひとつ大きなおまけがあった。
地所を買い求めると
前の所有者がもつ農地までついてきて
畑仕事つきのログハウスの贅沢が
私たちには約束されたのだった。

今年の正月に
何ということなく
福島への食糧支援を思いつき
安全・安心の農作物を作る目的で
友人たちに来てもらった。
農地の拡張とイノシシ対策
お化け屋敷と化した納屋の掃除。
それがボランティア初日の仕事であった。

小さな兄妹の手伝いもあり
農地の拡張と
イノシシを追い払う
電線の施設は順調にことが運んだ。
しかし翌日の納屋の掃除は
思いのほか大変だった。

20畳ばかりあるその小屋の全貌を
私自身見たことがなかった。
巨大な耕うん機が2台 脱穀機が1台
運搬機が1台 田植え機が1台。
その他おびただしい数の農機具 杭 農薬などが
所せましと詰まっているばかりか
土壁が一部崩落し機械にのしかかり
古民家の荒れ果てた倉の様相であった。

いずれの農機具も
1トンもあろうかという代物で
ブレーキは引いてあるわ
オイルは入ってないわで
自力に頼るしかなく
まる1日かかってようやく
私たちは何とか納屋の混乱を鎮めた。

多少の困難はあったものの
新たな支援の端緒を開けたのがうれしい。
この農園で元気に育った農作物が
放射能事故の渦中にある福島の人々の
光となるなら望外の幸せである。

このようなケースでは
農園に名前をつけるものだ。
偶然目にした谷川俊太郎の詩を
拝借し代用しておこう。

タネまけば芽が出るさ
芽が出れば花が咲く
花が咲けば実がなるよ
実がなればタネになる
ワクワク ワクワク
(谷川俊太郎「ワクワク」より)


というわけで
「ワクワク農園」活動開始。
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IMG_3804.jpg

海にも山にも近いログハウス

これが噂の「ワクワク農園」
遠くに見えるのが畑の納屋

SOMETHING GREAT

一寸先は闇である。
何が起こるか予測不可能。
ある日家族に手を振り
元気に家を出たとたん
車にひかれて死ぬことがあれば
1日の疲れをとる入浴中に
血管が破れ帰らぬ人になることもある。
自覚症状がないのに
余命1ヶ月を宣告されるのも
決してまれではない。

死に向かって生きる存在である人間には
常に何があっても不思議でない。
どんな事態になろうと
動揺しない心の準備が必要である。
今日死ぬか 明日死ぬかわからない。
数秒後に倒れ意識を失うかもしれない。
その不確定を人は運命と呼び
神の意思と考え自身を納得させる。
私にとってそれは
「SOMETHING GREATの働き」である。

サムシンググレートは
世界的な分子生物学者
村上和雄さんの言葉である。
村上さんは「ヒト・レニン」の遺伝子解読を
パスツール研究所やハーバーと大学に先駆けてやり遂げた
遺伝子研究の泰斗であり
また熱心な天理教の信者として知られている。

人間の遺伝子のあまりに見事な構造に驚嘆し
遺伝子の暗号を自身の手で書き込み
誤りなく動かしている何者かを想定しなければ
この所業を説明できないと考え
彼はそれを「SOMETHING GREAT」と呼んだ。

人知を超えた偉大な何か。
神と呼び仏と崇めてもいいが
科学者である村上さんは
宗教に属するこの奇跡を
科学的に解明する道を選ぶ。
そんな偉大な研究者にとって
「SOMETHING GREAT」だけが
ピッタリくる呼称であった。

村上和雄さんから借用した
SOMETHING GREATだが
私の場合やや趣が異なる。
その素性を特定できるし
多くの「何者」かは
私のもっとも親しい死者である。

それをユングの集合的無意識や
仏教の縁起のようなものと考えてもいい。
つまり私の両親 祖父母 祖父母の兄弟姉妹
何代にもわたる数知れぬ親類縁者 友人たち
現在の私と縁のある死んだすべての人が
巨大なサムシンググレート団を作り
私の生を取り囲んでいるのだ。

彼らは私に命を引き継いだばかりでなく
身体的特徴を決め 訛りも含めた言葉を譲渡し 
性格を作り 嗜好を定め 価値観の枠組みを整え
クセやつめの形 異性の好みにまで影響を与え
私はそれらすべてを自らの環境として
喜んで受け入れている。

私は彼らから受け渡された生を
現在の命として実現させている存在なのだから
私たちは自他一如の関係にある。
SOMETHING GREATは優しく
私を温かく見守ってくれ
支え 励まし 安心感を与え
よりよき人生の守護者である。

ときに病や事故 親しいものとの別離など
過酷な試練を与えるのもSOMETHING GREATである。
私はつらい運命に出くわすと
SOMETHING GREATからのメッセージに耳をすます。
どのような試練にも
彼らの何らかの意図があるからだ。

ドイツの哲学者ハイデガーはこう言う。
「人間が本来の生き方ができるのは死を見つめた時だ」
またこんな言葉もある。
「死と向き合うことは成長の最後のチャンスである」と。
フランスの画家ゴーギャンは
死を選ぶ前に描いた絵に
以下のようなタイトルをつけた。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
ナチスの強制収容者で
拷問に耐え生き延びたユダヤ人
フランクルの呼びかけはこうだ。
「人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができる。
ただひとつ与えられた環境でいかに振舞うかという人間としての
最後の自由だけは奪えない」(「夜と霧」)
フランクルは絶滅収容所という与えられた環境にあっても
言葉どおりに人間としての高貴な振る舞いを貫き通した。

ここに引いた言葉は
さまざまに語られた
SOMETHING GREATの意図であるように
私には思える。

死ねば私もSOMETHING GREATの一員となり
今度は子や孫 兄弟姉妹 ひ孫や友人たちを守り 
彼らを支え続ける存在となる。

「独生 独死 独去 独来」(大無量寿経)
ゴーギャンと同じメッセージのこのお経が
SOMETHING GREATと共に生きる
私の座右の銘である。
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可愛いパンダも
SOMETHING GREATからの贈り物

日々の詩 11

おとろえ

目をこらさなくても
すぐに気がつく
すっぱい果実に歯を立てたとき
スープの湯気で踊る朝のホコリを見ながら
動かないはぐれ雲と青い空
蛇口からしたたり落ちるしずくの音
ギターの弦を張り替えながら
長雨のにおいを懐かしくかいだ瞬間に
わが身のおとろえに気がつくだろう

葉を落とした老木で鳥は歌わず
枯葉は根元に吹き溜まり
飴色の羽音を残し
ハチは通り過ぎて行く
内部の空洞で風が無言歌を奏で
蝶に恋した思い出も褪せ
八月の友だちはもういないことに
すぐに気がつく

言い足りない思い
書けなかった未来へのメッセージ
そして私の残尿感

もし生まれ変わったなら
大工になりたいな

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私のミューズパンダも
フットボールが大好き

「まだ」と「もう」のあわい

一昨年から大学生協と組んで
関学のキャリアセンターが主催する
正課のインターショップ講座を
プロデュースしている。

私の役目は講義内容を決め
講師を依頼し
テキストを執筆・出版することである。
2年 3年の学生22名は
5班に分かれ半年間の秋学期の講義で
「問題解決の方法・仕事創造ワークショップ」に挑んだ。

最終回の昨夜は
プレゼンテーション大会だった。
それぞれの班は5分の制限時間を使い
研究した成果を7名の審査員の前で披露した。
優勝チームには優勝トロフィーと図書券が与えられた。

昨年度に続いて
発表のあとは生協主催で
学生も交えた懇親会が開かれ
関学会館内にある宝塚ホテル直営のレストラン
「ポプラ」から運ばれた料理を堪能した。

情報時代の若者らしく
パワーポイントを駆使した発表は
こじんまりとまとまり
そつがないものだった。
その一方で荒削りの魅力に乏しく
意外性の混迷がダイナミズムを生む
破綻の怪しい力に欠けるのも懸念材料だった。

審査員を務めた講師・大学教職員などとの
懇親会での話題もそこに集中した。
もともとこの講座には最終目的があった。
「オモロイ関学生を作る」。
という意味では理想には程遠かった。

大学の講義を通して
どこまで「型破り」を作れるのか
議論はいつしかそのような方向に向かい
私はオハコの「往きの学び 還りの学び」をもちだした。

「往きの学び」は知識の習得過程であるから
教育によっていくらでも伸びる。
一方「還りの学び」には決まった答えも道筋もなく
それぞれが得た知識・技能を解体しながら
自分独自の知恵を切り開く孤独な道程である。

2つの学びの違いは衣服にたとえれば理解できる。
フォーマルな服はルールさえ覚えれば誰でも着こなせる。
しかし私服は自分流の着崩し方を自力で発見しなければならず
この困難が会社員の無残なカジュアルの原因ともなっている。

私の話を引き取って聞かされた
教員の話は衝撃だった。
彼の2年におよぶ卒論指導は
学生との徹底した対論よって
やりたいことを気づかせるガチンコ勝負だという。

平和主義者の教官の意を汲んで
平和の研究をしたいという学生に
彼はそれが本心でないと見抜き
平和の意味を極めるように求めた。
長い経過ののち学生が泣きながら訴えたのは
自分には殺人願望があり
人を殺してしまうことを恐れるあまり
平和を願うようになったというものだった。
大学教育の無策・荒廃が論じられるなか
こんなすばらしい指導も生きている。

私はプレゼン大会に
ライスボウルで買ったパーカーを着ていった。
それもあってかファイターズの戦いぶりが
参加者のもうひとつの関心事となった。

ファイターズが1分39秒を残し
大逆転されたとき
「まだ1分39秒ある」か
「もう1分39秒しかない」かとの思いが
私の心中でせめぎあった。
それを説明するために
時系列でプレーを追ってみよう。

15対14で逆転したのちファイターズ(以下KG)キックオフ。
オービックス(以下OB) 23ヤードリターン
OB 自陣23ヤード ランとパスで第1ダウン 残り2分55秒
OB 自陣34ヤード パスとKGの反則で第1ダウン 残り1分48秒
OB 自陣44ヤード パスをKGがインターセプト 攻守交替
KG 自陣30ヤード 攻撃開始 残り1分39秒

この瞬間KGファンの誰もが勝ったと思った。
10ヤード進んで第1ダウンを更新すれば
KGの勝利は決定的になる。
なぜなら3回の攻撃のたびに
OBはタイムアウトを取り
その後には時計を止めるすべがなくなるから。
たとえ第1ダウン更新は無理でも
パントを敵陣深く蹴りこめば
数十秒残しそこからの逆転は
常識的に不可能と安堵していたのだ。

この安心が勝負の綾を蝕み
「まだ」と「もう」のあわいを生む。
KGもかつてはそのような経験があった。

1997年 第52回甲子園ボウルで
残り59秒で攻撃権を得たファイターズは
自陣30ヤード付近からの攻撃をタッチダウンに結びつけ
法政大学に追いついた。
このときのファイターズベンチは
「まだ59秒ある 逆転できる」と思ったはずだ。

もしライスボウルでも
ファイターズがオービックスの攻撃陣と同じ
「まだ1分39秒ある」と用心すれば
あるいは逆転劇は防げたかもしれない。

ファイターズはオービックスを分析しつくし
相手の弱点を攻めに抜き
自身の弱点をカバーしつつ
見事な戦いを演じた。
この方程式は「往きの学び」なので
努力すればするほど精度は上がる。

しかし「まだ」と「もう」のあわいは
「還りの学び」に属する・・・・・・。
それを試合で実現する困難は
プレゼンした学生たちの小器用な無難さを
解体するのと同様の険しい隘路となろう。

あぁでも悔しい。
絶対勝てた試合なのに!!!

6

これが自慢のパーカーです。

目には目を

私は近視である。
超のつく目の悪さで
多くいる友人の中で
私ほどひどい視力の者は
ひとりもいない。

私がメガネをかけたのは
小学6年生のときだ。
ずっと0.1以下だったけれど
メガネを買ってもらわなかった。

黒板が見えないのだから
当然授業についていけない。
音楽と体育を除いて
他の教科はクラスの最低レベル。
特に理数と図工がひどかったー。

視力の悪化は止まらず
それでも同じメガネを使い続けたので
高校では矯正しても0.2くらいにしかならなかった。
学力不振は相変わらずで
ボンヤリかすんだ視界に別れを告げるには
それから約10年
コンタクトを買うまで待たなければならない。
私は30歳になりかけていた。

はじめてコンタクトをつけたときの驚きは
今でも鮮明に覚えている。
町を歩くと道路の砂の1粒 1粒までがくっきりと見えた。
夜には満天の星空。
道行く人の毛穴まで見える気がした。

驚いたことに視界の変化は
夢にまでおよんだ。
これまでの焦点のぼけた夢は一変し
美しく鮮やかな世界が出現した。
近視の目で生きた以前の生活すべてが
実はおぼろな夢の出来事で
白濁を拭って現れた澄明な別世界こそが
私の実人生のように思えたものだった。

私と目の蜜月は長く続かなかった。
映画制作から歩合制の営業に転職したある日
私はコンタクトレンズを道に落とした。

その日は雨で道はぬかるんでいた。
轍の上に落ちたコンタクトが光り
拾おうと身をかがめたとき
背後からけたたましいクラクションが聞こえた。
コンタクトか命か
一瞬の躊躇のあと私は命を選んだ。
私の目の代用品を飲み込んだ泥濘の山を残し
ダンプカーは勢いよく走り去ったのだった。

新しいレンズを買う金もなく
私の片目人生がはじまった。
1枚のコンタクトを両目で共用した。
仕事をするときは右目で使い
5時の終業と同時に左目に移し
私は意気揚々と遊びに出かける。
私の目はパブロフの犬状態となった。

右目にコンタクトがある間は
表情の締まった仕事モードとなり
左目に入れたとたん軟弱になり
酒が飲みたくなった。
その状態は68歳の今も同じである。

レンズの酷使と手入れの悪さで
私はしばしば眼球を傷つけた。
装着当初から洗浄液や保存液を使わず
つばでその代わりをした。
ある日起きると
目ヤニで目が開かなくなっていた。
ズキズキ痛むばかりでなく
光に注意を向けると
重くまぶしい痛みが脳に響いた。

私の眼から異物を取り去り
診療を終えた目医者は
怪訝な声でこうつぶやいた。
「おかしいなあ 魚の骨みたいなのが
眼球に突き刺さっていたんだけどな」と。
「魚とは変ですね」と私はとぼけた。

脳裏に前日の朝食べたメザシが浮かんだ。
レンズをなめて「洗浄」したときに
メザシの骨が瞳に刺さり
それが炎症を起こしたようだった。
眼球と魚の骨。
遠くのものを出会わすことを本質とする
詩情にも通じる出来事であるが
その後も私の目は数々の傷を経験した。

長々と近視について述懐したのは
1月3日のライスボウルの日
コンタクトレンズを忘れ東京に行ったからだ。
片目の不自由は読書時にきわまる。
新幹線での長い移動に本を読みたいので
私はメガネ(視力は0.1程度)で家を出た。
レンズを忘れたのは痛恨の不注意であった。

幸い双眼鏡があったので
プレーを追うことはできた。
しかしシステムで攻め
システムで守るアメリカンフットボールでは
全体を見渡せない視野は致命的である。
NO.1ファイターズファンを自認する私がなんてことを!
東京ドームに着くまで私は自身を呪い続けた。

試合は予想通り厳しい戦いになったが
ロースコアゲームをもくろむ
ファイターズのプランにそった展開になった。
7対14とリードを許したまま
第4Q終盤になってチャンスが巡ってきた。
しかも私が陣取るゴールに向けて
ファイターズが攻め上る形になった。
目前のプレーなら双眼鏡に頼らなくても見える!

試合終了まで3分を残し
ファイターズはランでタッチダウンを奪う。
私の近視の目はしかと見届けた。
得点は14対13。
キックでトライフォーを選べば同点だが
ファイターズは2点コンバージョンを選択し
一発逆転の勝負に出た。

重戦車RBの望月選手が左に流れ
QBの畑選手から放たれたパスを受け
私のいるゴールに向かって突進してきた。
相手は全員でランの阻止に上がり
がら空きになったゴールに
WR小山選手が走りこんできた。
望月選手がふわりと投じたパスでTD。
スペシャルプレーが成功して大逆転。
私の目からは喜びの涙があふれた。

まさかその数分後に再逆転を許そうとは・・・・・・。
私の目からは今度は悔し涙がこぼれた。
目にはじまって目で終わった一日。
意味を離れて言葉遊びをすれば
1月3日は「目には目を」の日になった次第である。

それにしてもファイターズはよく戦った。
勝つだけではなく
気高く勝つことにこだわる
美意識を実証した試合だった。

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