スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

母の命日と新しい命

8月26日は母親の命日である。
母は2009年8月26日 午前10時25分に
99年におよぶ長い長い生涯を閉じた。
その日の早朝に病院から呼び出された私は
人が死んでいく姿をつぶさに見ようと
病院のベッドで眠る母を見守り続けた。

1週間前から昏睡状態の母は
2度と目を覚ますことなく
静かに息を引き取った。

人が死ぬときには呼吸が荒くなると
勝手に想像していたのだが
母の場合はまったく逆であった。

ひと呼吸 ひと呼吸弱く 間遠になり
もうお終いかと枕もとの計器で確かめると
まだ心臓は動いている。
すると思い出したように息を吸い
ふたたび長い沈黙と静止。

そして母は短いいびきをかき
最後にひとつまみの空気を吸うと
そのまま2度と酸素を求めず
母の器官はすべてが静止し
ものと化していった。
これが私が見た人の死であった。

熱心なクリスチャンだった母は
教会の地下にある納骨堂に眠っている。
この納骨堂では年に2回
永眠者記念礼拝が行われる。

クリスチャンホームには
仏壇も遺骨もなく 法事も必要なく
土に帰った親族たちの追慕は
教会がやってくれるので本当に助かる。

私が墓参りに来たのは
これまでに2回だけ。
親不孝者の典型である。
昨日は母の死後はじめて
命日と日曜が重なり
さすがの私も礼拝に行く気になった。

教会の近くの老人ホームに入った母を
晩年にはよく教会につれてきてやったものだ。
ひとりでひんやりした礼拝堂にいると
亡くなる3ヶ月前
最後に母を礼拝に連れてきたときのことが思い出された。

母は小柄で小さな口をしている。
目の形はウサギのようで鼻はワシ鼻。
生真面目な表情で凝視する癖があった。
その日の礼拝では聖餐式があり
母はパンとぶどう酒が配られる前に
おそらく千回は口にしたセリフで私を諭した。
「あなたはクリスチャンでないから取らないで」

そして手にしたパンを口に含み
いつまでも噛んでいた。
ぶどう酒の入ったグラスをもつ指が
異様に白く 骨ばって見えた。
ウサギの目は真面目くさったままで
ワシ鼻が小さな口に影を作っていた。

やがてオルガンが鳴り
聖餐式の終わりを告げた。
すると母が私の腕を突っつく。
私の耳元に口を近づけ母は
いつもの悪口を言った。
「この人8分の6拍子の音を1つ抜かすでしょう。
気持ち悪くない?」と。
ここの教会の元オルガン奏者だった母は
音にうるさい上に
無類の口が悪い人間だった。

聖餐式のパンとぶどう酒に手を出すな。
ここのオルガン奏者は8分の6拍子がうまく弾けない。
最後の礼拝となったその日にも
母はいつもと同じ注意をし悪口を言った。
生きていれば102歳になる母は
しかしもうこの世にいない。
母の不在を死後はじめて濃く感じた一瞬だった。

礼拝中にポケットを揺らす
着信のサインを何度か感じた。
礼拝が終わり納骨堂で母と再会し
携帯を取り出すと息子からの電話とわかった。

かけ直すと息子の元気な声が聞こえた。
「マユちゃんが妊娠したので友だちを呼び
人前結婚式をしたいのだけど
お父さんのログハウスを使っていい?」

私はその知らせに
思わず六甲山の山並みに目をやった。
空は晴れ上がっているが
山の緑にはもう6月の爛熟はなかった。
母の死と新たな生命の誕生が
その景色の中で交錯した。
母の命日に孫となる命を受胎した知らせ。
私の心に生と死の感覚がしみじみと染みわたった。

六甲山を背景として
王子動物園の観覧車がゆっくり回っていた。
母の通夜があった日
準備が整うまでみんなでその観覧車に乗った。
当日も空は晴れ山の緑はあせかけていた。
空が傾き息子と娘の若い従兄弟が悲鳴を上げた。
だれかがその瞬間をカメラに収めた。

ふと息子からかかった
今朝の着信記録を見ると
2012年8月26日午前10時25分。
3年の月日をまたぎ
未来から母の声が届いたような
奇妙な錯覚に私は囚われたのだった。


スポンサーサイト

最終日

福島の親子28人を招いた
私たちの夏のキャンプは
伊丹発14時30分のANA1695便-(福島着15時55分)
をもって終了した。

最終日の前日の23日には
福島の親子が料理を作り
地元の人を招き
フェアウエルパーティーを開いた。

福島からの参加者が作った手料理は芋煮鍋。
10人のお母さんと1人のお父さんに
子どもたちが加勢して調理をしてくれた。
意外にさっぱりした本場の味であったが
それぞれの家庭に独自のおふくろの味があるらしく
互いに家風を譲り合った料理風景も楽しかった。

パーティーの最後に
福島の子どもたち18人が
阪神大震災で生まれた歌を
地元の人にプレゼントし
お礼の言葉に代えた。
この震災ソングを知らない人のために
歌詞を書き写しておこう。

しあわせ運べるように(東北バージョン


地震にも 負けない 強い絆をつくり
亡くなった方々の分まで 毎日を 大切に生きてゆこう
傷ついた「東北」を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる「東北」のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

(作詞・作曲 臼井 真)

背筋をピンと伸ばし
けがれを知らない声で歌う
子どもたちの歌と姿に
地元の人々は阪神大震災を思い出し
福島の親は3・11の苦難の日々が蘇り
誰の目からも涙がこぼれた。

私たちが会場とした
豊岡のオートキャンプ場には
10人棟と5人棟のコテージがあり
私たちは10人棟を1棟 5人棟を3棟借り
2台のキャンピングカーを加え宿舎とした。

キャンプ初日から誰が呼びかけるともなく
10人棟の前のバーベキュースペースが
スタッフと親たちとの夜の交流の場になった。

昨晩は最後の会合ということもあり
また「しあわせ運べるように」の余韻もあったのだろう
若い母親がキャンプ場に着いた日
7歳の息子と交わした会話を披露してくれた。

木々に囲まれた
自然がいっぱいの
キャンプ場に着いたとき
少年はこのように聞いたらしい。
「お母さん この芝生も 草も触っていいんだよね」
「そうよ ここの自然には放射能の心配がないからね」
「いっぱいさわっても ぼくは大丈夫なんだね」
「うん、大丈夫 大丈夫」
「でもぼくが触ったら ここの芝生は放射能で汚れない?」
「汚れるかもしれないけど もしそうならどうしたい」
「ぼく 草とかを汚したくないので 今から福島に帰る」
「せっかく キャンプに来たばかりなのに・・・・・・・・・・・・」

この切ない親子の会話こそが
福島の人々が今置かれている状況を
雄弁に物語っている。

7歳になったばかりの子どもに
いかなる過失があって
このようなつらい犠牲を
強いているのか。
この問いに答えられるものがいたら
ぜひ答えてほしいものだ。

  

キャンプ2日目

キャンプ2日目。
今日はコウノトリ公園へ行く。

昨晩は地元の人たちが催してくださった大歓迎パーティー。
歌や踊りがあったわけではないが
とにかくよく食べ よく飲み よくしゃべった。
子どもが元気である。
それがないよりの救いである。

私たちの勝手なイメージで
行き暮れた
さびしい子どもたちとの出会いを予測したが
いいほうに外れた。

はじめてたずねたコウノトリ公園だが
コウノトリは静かな静かな動物であった。
それもそのはずコウノトリは鳴けないのだ。
足音を忍ばせて歩き
黙々とえさを捕獲し
ひそかに飲み下す。

私たちはコウノトリを
鶴と間違えているケースが多々あるらしい。
花札に書かれた松に鶴の図柄は
混同の最たるものという。
鶴は木に止まれないのに
花札の鶴は木の上から周囲を見渡している。
つまりあれはコウノトリというわけだ。

世の中にはいろいろとわからないことがある。
68年目の発見である。


大ウソ自己紹介

今日から24日まで
兵庫県の北の端豊岡市日高町で
キャンプがはじまる。
チームからは6名が参加し
福島からくる29名の親子の手助けをする。

昨年11月から活動を開始した私たちには
背伸びした企画であることは間違いない。
物心両面の支援をしてくれる
豊岡の人たちと力を合わせて
精一杯頑張ってみよう。

ネット環境の整わない
山間の町ではあるが
毎日レポートができればと思っている。
私たちの最初の仕事は
空路で関西入りする子どもたちを
伊丹空港に迎えにいくことだ。

思えばこのキャンプ計画は
往復の飛行機の予約をとることからスタートした。
福島-伊丹間の便は1日3便
そのうち2便は50人乗りの小型機。
そこに30席確保するのは大変だった。
帰りの1便は70人乗りなので
スムーズにことは進んだ。

席を押さえてくれたのは
福島の旅行会社「あさかの旅工房」
「あさか」はたぶん「安積」を当てるのであろう。
岩代の国(福島県)の古い地名だ。

予約に際してはこのように釘を刺された。
「30人押さえますけれど
ゼロだけは勘弁してくださいよ。
これから商売できなくなります」と。
半数上の席を確保しながら
すべてキャンセルでは航空会社に顔が立たない。
これが私の最初のプレッシャーとなった。

最年少は2歳の女の子。
最年長61歳。
大人10人と子ども19人がやってくる。
伊丹空港から「湯の原オートキャンプ場」までは
貸し切りバスで移動する。

車内では自己紹介ゲームをやろうと
ネットで検索するうちに
アイディアが浮かんだ。
名づけて「大ウソ自己紹介」
自己紹介の中にひとつ大ウソを入れる。
ウソは大きければ大きいほどいい。

「僕は木田拓雄です。10歳になります。
この間のオリンピックでサッカーの選手として出場して
金メダルとなる決勝ゴールを決めました・・・」とか。

夢を語るとなれば
堅苦しく 平凡になりがちだが
大ウソなら夢の翼を大きく広げることができる。
原発事故により将来を閉ざされた子どもたちが
どのな大規模なウソをついてくれるのか
今から楽しみである。

では行ってきます。
伊丹空港に向かってGO!GO!GO!GO!
(郷ひろみのパチンコ屋のCMですね。これでは)


終末と再生

8月に入って
あっと言う間にもう4日。
7月以降
映画も見れず 本も読めず
ものも考えられず ブログも書けず・・・・・・。
チャリティー絵本の出版・販売
キャンプの準備に走り回っている。

一昨日大量に本を買った。
普通なら2ヶ月もあれば読破できる量だが
この調子ならいつ読み出せるかさえ見当がつかない。
考えなければならないことがたくさんある。
3・11ですべてが変わってしまった。
しかしながらそのターニングポイントを
私は見つけだせずにいる。

とりあえずの言葉として
「終末と再生」という言葉を置いてみよう。
福島第1原子力発電所にほど近い飯館村で見た景色は
まさに終末そのものであった。

燃え上がる緑
紺碧の空
無邪気に輝く太陽。
自然が目一杯贈り物を差し出しているのに
それを受け取ろうとするものが1人もいない。

無人の家々の軒下に
事故を知らずに戻ってきたツバメが
今年も巣を作ろうとしていた。
それが目にすることのできるただ1つの生命だった。

太陽のあまりの明るさから
私は幾たびも語られた
1945年8月15日の青空を幻視した。
飯館村で私が見たのは
終戦の日と同じ
「滅びの明るさ」だったに違いない。
しかしそこには
8月15日にはあったであろう解放感もなく
戦後が拓いた新しい社会への期待もなく
あっけらかんとした終末だけがあった。

最悪の出来事でさえ
それを突き詰めていけば
いい方向に転位する場所がある。
私は仮にそれを「終末と再生」と呼んだ。
福島原発事故ではその転換点が見つからない。

不謹慎を承知で「終末と再生」を
簡単な問いに変えてみよう。
私たちはいつか どこかで
「放射能被曝をして良かった」
と言える時が来るのであろうか。

私にはいかなる意味においても
その地点を見出すことができない。
それが見つかりさえすれば
そここそが「再生」への起点となるはずである。
しかし私の心は手がかりを求めて
虚しくさまようばかりである。

震災について書くように求められ
金子みすずの「明るいほうへ」を引用したことがある、
 
 明るいほうへ
 明るいほうへ。
 
 一つの葉でも
 陽のもるところへ。

 やぶかげの草は。
 
 明るいほうへ
 明るいほうへ。


このように詩いながらも
私の心にあったのは
メルトダウンし放射能の塊となった燃料棒が
格納容器を突き破り
地中深くどこまでも潜っていく様子であった。
ズルズルと「悪」のほうへ・・・。

  暗いほうへ・・・
  暗いほうへ・・・・・・。
この終末観が行き着いた先で
たとえかすかな兆しであっても
「明るいほうへ」転化できる何かが見つかるのか。
私は何とかそれを見つけだしたいと願う。

8月20日には4泊5日の予定で
29名の親子が福島からやってくる。
子どもたちと一緒に遊び
共に食卓を囲み
親たちから被災体験を聞き
同じ空気を呼吸し
少しでも長く太陽に当たってもらおう。

 夜とぶ虫は。

 明るいほうへ
 明るいほうへ。

 一分もひろく
 日のさすところへ。

 都会に住む子らは。
 (金子みすず「明るいほうへ」) 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。