スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

未完のまま完結

昨晩梅田の駅で
グリコの看板を見た。
目に飛び込んできたのが
「1粒300メートル」の文字。
酔った頭で「何で300メートルなんや」と考えた。

今朝ネットで調べて思い出した。
グリコ1粒には300メートル走れる
エネルギーが含まれている。
昔確かにそう宣伝されていた。
それにしても「何でこの中途半端な距離」
私の疑問は半ば解消されずに残った。

まもなく開催のロンドンオリンピックでも
100M 200M 400M 800Mが正式種目である。
この居心地の悪い距離の出所を求めて
何でもわかるウィキペディアで調べた。
するとあった。さすが!!!

日本陸連に日本記録として認定される種目に
60メートル走 300メートル走も入っているではないか。
それにしても「チュート半端やな」と
突っ込みを入れたくなる距離である。

このような暇な感慨に囚われたのは
昨日という日の特殊性と関連がある。

昨日は朝のニュースで
まず大きな衝撃を受けた。
イチローがヤンキースへ移籍!!!
そのニュースを見たのは
海外にいる友人と
電話で話している最中だった。
「えぇ-ちょっと待って。臨時ニュース!」と断り
私は相手に内容を伝えた。
「今から食事なので皆さんに伝えます」と言い
彼女は電話を切った。

彼女が参加しているツアーは
グアテマラに滞在中であった。
偶然のいたずらによって
彼女たちはおそらく南米で一番最初に
このビッグニュースを知ることになったはずだ。

イチロー移籍の寂しさには
新旧交代という思いがあった。
テレビではダルビッシュ投手が
インタビューを受けていた。
200本以上の安打を打ち続けていたイチローに
このような日が来ようとは想像もできなかった。

昨日はできたばかりの絵本を
親しい賛同者に届ける予定であった。
まず大先輩の社長の会社に行き
多額の寄付金をもらった税理士さんをたずね
映画館の支配人に本を渡し
居酒屋「風まかせ 人まかせ」に立ち寄り
本を届けがてら私に連絡を取りたがっている
人と会う手はずになっていた。

私たちのチームのTシャツを着て現れたのは
40前後の大きな男性だった。
話題はなぜともなく
アジサイ革命とも称される
最近の反原発デモの話になった。

彼もよくデモに加わるようで
そのたびにデモ初参加と思しき人に
彼は進んで声をかけるらしい。
せっかくデモに来たのに
ほかの参加者と一言も話す機会がなければ寂しいだろうし
自分と話をして体験を共有できれば
またもう一度来る気になるはず。
そのような目的で彼は声がけをするばかりか
それが自分たちの活動であり
私に会いたいと望んだのも
その声がけの一環なのだと彼は説明してくれた。

私は彼の発想の新しさに驚いた。
フェイスブックなどを使った
個人が個人として参加する
反原発デモについては
動員型の旧来のデモとの違いをたびたび耳にしたが
このような具体例を示してくれたのははじめてだった。

運動の新奇さに驚きながらも
いまひとつ得心がいかない様子の私を見て
彼は自分たちの会議を見ないかと提案してくれた。
3Lでもきつそうな大きな体を
Lサイズに押し込んでいるため
彼が着るTシャツのhamln project joint teamのロゴは
なぜか笑っているように見えた。
その穏やかな笑みこそ彼らの運動の本質なのだろうと
私は勝手に想像しながら彼につき従った。

10数人の若者が集まり
活発に議論を交わす様子を
在阪テレビ局のクルーが取材をしていた。
ホワイトボードには12月までの月が並び
それぞれの枠にイベント名が書き加えられていく。

イベントの頂点は12月に設定されているが
どのイベントも彼らが主催するものではなく
彼らにとって主催者などは二の次で
自分が興味をもったイベントを勝手に盛り上げ
それがうねりとなって12月に押し寄せればいい
と考えている風であった。

連続の不連続と言えばいいのか
我欲というかむさぼりを
見事に欠いたすがすがしい考えに
私はいたく興味を引かれた。

これまでの運動では
闘争は手段に過ぎず
目的は自勢力の拡大にあった。
それに引き比べ
目の前にいる若者たちは
すべてのイベントが目的であり
だれが成果を手にし党勢を拡大するかなど
一顧だにしていない様子であった。

私は心が晴れ晴れする思いになり
彼らと別れて家路に着いたのである。

昨日は天神祭りの宵宮の日だった。
前を歩く家族はいかにもニューファミリーの風情である。
浴衣の似合う可愛いお母さんが
これまた上手に着付けした浴衣姿の男の子の手を引き
その横を長い足を半ズボンから突き出した
長身でイケ面のお父さんが歩いている。

いいなー新しい家族は
とその日何度目かの新旧比較を試み
ふと目を上げるとグリコの看板が目に飛び込んできた。
そのいかにも古めかしい意匠とコピー
「1粒で300メートル」・・・・・・。

それがどうしたのか結論らしい結論もなく
昨晩出会った若者流に〆れば
今日のブログは
未完のまま完結である。

スポンサーサイト

「いやだ」という言葉

7月16日に行われた
反原発デモの参加者が
17万人に達したという。
ものすごい数ではないか。
参加者の多くはフェイスブックや
ツイッターで呼びかけあい
自発的に参加した若い人たちとのこと。

若者たちが
国の決定に納得できないと
立ち上がることは大切である。
冷ややかにデモを眺める人は
その効力を疑問視するけれど
デモの場合は効果よりまず
「いやだ(ノー)」と
高く声を上げることに意義がある。

だれが「アラブの春」を予想できたであろうか。
ある日だれかが「もういやだ」と立ち上がり
長く続いた圧制者を倒すにいたったのである。
原発の全廃だって不可能ではないはずだ。

あくどい利権にしがみつこうと
国民の命よりも企業の利益を優先しようと
日本の子どもの未来を奪う決定を下そうと
無為・無策・無責任な政治を行おうと
だれも非難するはずがないと高をくくっている施政者に
ときにはズンと堪える一発を見舞ってやらねばならない。
ガンバレ若者たち。

このように盛り上がるデモの隊列に
私も加わるかといえば
おそらく参加しないと思う。
プラカードを掲げたり
シュプレヒコールに和したり
パフォーマンスをしたりすることは
私にとっていささか恥ずかしい。

私にもデモの経験くらいはある。
ある過ぎるくらいある。
逮捕歴も半端ではない。
20代の半ばで私は街頭行動を
止めようと決心した。
いかにも24,25歳の若者らしく
「次にデモをするのは俺の息子か孫が
兵士として戦争に狩り出されるとき」と
私は自分の決意に意気がった言葉を与えた。

それ以降私はデモに無縁である。
現在の事態が「息子や孫が戦争に借り出される」状況より
決してよいわけではない。
さらに悪いとも言える。
しかし私が直接行動を選ぶことはないだろう。

反原発行動で私が気に入っているのは
24時間リレーハンストである。
1人が24時間水だけで過ごし
次の人にバトンを渡していく。
場所は自宅でも決められた場所でもいい。
空腹という反エネルギー状態を作り出し
原発と無縁の生活と向き合うのである。
効果という点ではデモよりさらに心もとないが
従いたくない気持ちを示すには十分である。

福島の事故が起こって以来
原発に依存しなくても
生活が可能であることを私は試してきた。
「ノー暖房・冷房」生活は2年目を向かえた。
それによって私の電気使用量は
前年比最大76%の節電になっている。

冬はひたすら着込むことで寒さに耐えるが
夏は脱いでいくだけだから楽なものである。
家にある窓は24時間ほぼ全開。
ほとんど裸同然(というか全裸なのだが)なので
風紀や防犯の観点からややヤバイかも。
しかし近所からの苦情はないし
部屋は1階にあるけれど
留守中も真夜中も開けっ放しの窓から
泥棒が入った形跡はない。

それと食生活の工夫も
耐寒・耐暑生活に欠かせない。
今私は塩麹とヨーグルトソースにはまっている。
その料理の一部を紹介したい。

塩麹を使った私の得意料理は
ブタ トリ 牛タンの煮込み冷製である。
前日にそれそれの肉に塩麹をすり込み
ラップで包んで1晩寝かせる。
それをタマネギやセロリなど共に煮込み
十分に冷やして食べる。
値段も安いし おいしくて 栄養価も高く
夏ばて予防にピッタリである。

もう1品毎朝食べるのが
温野菜のヨーグルトソース添えである。
野菜は何でもいいが
私は次のようなものを使う。
タマネギ 大根 長いも ピーマン セロリ
レンコン ブロッコリー ニンジン キャベツ
エリンギ ジャガイモ オクラ ズッキーニ
これらの野菜を蒸気で蒸し温野菜を作る。

ヨーグルトソースは以下のとおり。
まずプレーンヨーグルトを用意する。
そこにおろしニンニクと塩麹 クレージーペッパー
オリーブオイル レモン マヨネーズを少々加え
あとはグルグルかき回せば出来上がり。
これが何ともうまい。

ヨーグルト

私はデモに出て行くことはないが
自分の生活を極限まで質素にしても
ちゃんと生きていく自信はある。
子どもや孫の命を別にして
何を失っても私は平気なので
節電 不況 貧乏への逆戻りの脅しも
私には通じない。

二十代のときに作った散文詩「深海魚」で
私は次のように書いた。
「私は外国語を学ぶとき 
まず『いやだ』という言葉から覚えよう。
『NO NON NEIN 不(ブゥ)』

今もこの精神は衰えていないと信じたいものだ。


英語版公開

難産の末に
今日「奇跡の木」英語版を
インターネット上で公開した。
下のバナーをクリックすれば
ジョイントチームのホームページが現れ
音声付の絵本を楽しむことができる。

<br />Hameln Project Joint Team

絵本は静かな音楽と共にはじまり
やがて深い声が語りかけてくる。
このテーマ音楽「凪」を作曲をしてくれたのは
ミッキー渕上さんである。

彼の説明によれば
たとえ海は逆巻き
20mを超える津波が
人々を絶望のふちに沈めようとも
いつか海には平穏な「凪」が戻り
傷ついた私たちの心を癒してくれる時が来る。
そのような思いで
この曲を書いてくれたらしい。

深い声の持ち主は
翻訳ボランティアのアメリカ人
ロス・ミラーである。
彼はミスらしいミスもせず
32ページの絵本を一気に読んでくれた。

堂に入った朗読振りに
経験を問いただすと
何と初体験だそうな。
頼もしきオールドルーキーだ。

録音をお願いした渕上さんには
30畳を超える自宅のスタジオまで提供してもらった。
ミッキー渕上さんもボランティア。
ありがとう、ミッキー&ロス。

チャリティー絵本に寄付をいただいた
260名を超える見知らぬ人たち。
絵を描いたり
デザインをしたり
翻訳をしてくれたり
テーマ音楽を書いてくれたり。

いずれも豊かな才能を
無償で提供してくれた
多くのスタッフ手によって
「奇跡の木」は船出を迎えることができた。

チャリティーで結ばれた人たちより
さらにさらに多くの人たちとの出会いを祈り
私は出帆のドラを打つ。
行け「奇跡の木」

このブログを読んでいただいている皆さんも
どうか英語版をお読みください。
また多くの方にこの絵本をご紹介ください。
よろしくお願いいたします。

ラッキーな経験

7月7日発刊予定の
チャリティー絵本の出版が
大幅に遅れる見通しである。
原稿を書き直したことで
7月11日に発売日が延び
次には製作・流通上のトラブルが重なり
さらに数日遅延する恐れがある。
たった今印刷会社から連絡が入り
「奇跡の木」が書店に並ぶのは
7月17日に決まった。
ヤレヤレそれほど遅れなくてすむ。

このようなゴタゴタで
私はあまり苛立たなくなった。
「人生、思うようにならへんのは当たり前」と達観できる。
昔の私を知る人間からすれば
驚くべき変貌振りである。
テーラワーダ仏教の長老
アルボムッレ・スマナサーラ師匠の
薫陶を受けたためだろうか。

6月18日(私の誕生日だ)に予定していた
英語版の電子書籍の公開も遅れている。
これについては先日録音も終わり
7月9日公開のめどが立った。
2ヶ月くらいは無料で配信し
そののちアップルストアを通じて
3ドルばかりで販売するつもりである。

さまざまなトラブルに見舞われはしたが
日本語版、英語版発刊の遅れは
日本語を英語に置きなおす
困難に由来している。
私には楽しい経験だったし
私たちがいかに深く言葉に染め上げられているか
身をもって知るいい機会であった。

英語版の出来については
ネイティブの中でも賛否が分かれた。
すばらしいとほめてくれた人でさえ
船と奇跡の関係はわかりにくいと
保留をつける者がいた。

そのような批評に答えるべく
私は最後の最後に
以下の3文を加筆した。
その英訳と見比べてみれば
英語と日本語の根本的な違いがよくわかる。

「優しさが海なら 猛々しさも海である。
生と死 愛と憎悪 善と悪 秩序と無秩序。
海はこれらが未分化のまま溶け合っている。
潮の苦さはここに由来するのかもしれない・・・・・・」

Sometimes tranquilly calm and other times raging with violence, the ocean is a living contrast.
Good and bad…order and disorder…love and hate…life and death…the ocean neither knows these things, nor cares about them. The ocean just is. The waters cover all.
In its tiniest form, the taste of a drop of seawater is no different from that of a human tear.
This is understandable, as the ocean has absorbed countless tears since the beginning of time.

「伝承通りに
死者の魂が海を超えて帰ってくるのを
彼は待っていたのかもしれない」

As the legend says, this was the place where the souls of the dead often return.

「人々は船を目撃したときから
それが死んだ肉親たち
行方不明になった
仲間たちが帰還する船だとわかっていた。
(『遠野物語』で蘇った恋人たちの再来として・・・・・・)
死者と交流してきた慣わし通りに」/strong>
Since first seeing the ship, knowing the tradition of communicating with the deceased by making both “welcome” and “farewell” boats, they realize it is coming back with all of their deceased family members, relatives, and friends on board.


私には3つの文それぞれに
対照がおもしろかったけれど
最も興味を引かれたのは
英語と日本語の違いが際立った
最初の対訳である。

巧拙を問わなければ
私の日本語はそれほどおかしいわけではない。
むしろ日本語的文ですらある。
主語があいまいで
場を自在に変えながら
それが視点の変化として
新たな主語を呼び起こすことがない。

一方英文を見てみれば
主語は擬人化された海(the ocean)で一貫している。
たとえば日本語では非人称で語られる
生と死 愛と憎悪 善と悪 秩序と無秩序の未分化。
それさえ未分化を知っている主体(=主語)は海なのだ。

極めつけは潮の苦さの由来である。
涙の形と海の滴の同質性を枕にして
海によって大昔から人の涙が吸収されてきたから
潮は苦い味がすると論理的 客観的に結論づけられる。
なるほどこれほどまでも
英語と日本語は違うのだと
納得した次第である。

不思議なことであるが
言葉の違いを意識しながら
訳された英文を読んでいると
そこで暮らす人の姿まで
文を通して見えてくる気がする。

このような作業を
地球に住む私たちが丁寧にやることで
世界の人々との相互理解は進み
戦争など起きないのではないかと思えた。
小林秀雄がかつて言ったごとくに
文学はやはり平和な仕事なのかもしれない。

絵本のおかげで
私はラッキーな経験をさせてもらっている。
中国語の翻訳は1版ができあがった。
早くもセミがうるさく鳴いているらしい南仏では
大地君を傍らに座らせた訳者の若いママが
フランス語への翻訳にいそしんでくれているのだろう。
こう想像を広げるだけで楽しくなる。

難題だらけの日本社会を
瞬時忘れることができた
幸せなひとときであった。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。