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夢のまた夢

5月も今日で終わりとなる。
なんともあわただしい日々であった。
チャリティー絵本の完成も間近。
しかしここからが胸突き八丁である。

ハーメルンPJジョイントチームの別働隊である
「チャリティー絵本『奇跡の木』発刊準備委員会」は
およそ4つの組に分かれて活動している。
絵本自体を作るアート組。
物語を英訳する翻訳組。
情報発信をするホームページ組。
チャリティーへの参加者を集める営業組。

最終週の28日に入ってアート組は
テーマへのより深い関わりを求めて
4ページ増を決めた。
筋を追うだけなら不要かもしれないが
気持ちのタメを作るページが加わることで
味わいは濃厚になるはずである。

翻訳組にはホームページの英訳が残っているばかりか
絵本における「奇跡」の解釈を統一した結果
表現の再検討を迫られている。
ナレーション撮りも業務である彼らにとって
気の抜けない日々が続く。

ホームページ組はさらに忙しい。
ジョイントチームのホームページに
「奇跡の木」専用ブースを開設し
チャリティーの参加者への情報発信を
ここで一手に引き受けなければならない。
チャリティーへの登録と寄付の受付など
面倒なシステム構築も道半ばである。

ホームページのトピックスを並べれば
彼らの忙しさを想像してもらえるかもしれない。
「TOP」「概要」「奇跡の木について」「絵本を買うには」
「ENGLISH版ダウンロード」「日本語版見本」
「原画を楽しむ」「著作権などについて」
最初の階層だけでもこれだけの項目がある。
いくら困難な作業であっても
ホームページ開設なくして
私たちは前に進めない。

「奇跡の木」専用ブースのオープンは
6月中旬の予定である。
ここにアクセスすれば
世界のどこにいても32頁の英語版絵本を
無料でダウンロードできる。
携帯端末でも読める英語版で
世界を相手にした前宣伝を展開し
7月の日本語版書籍の販売への道を拓くのが
チャリティー絵本の戦略である。
詳しくはジョイントチームホームページを見て欲しい。
www.hamelnjoint.com/

5月が多忙を極めたもう一つの理由は
このブログで何度か取り上げた
私の節電対策の総仕上げを実行したからだ。
淡路島のログハウスにはサウナルームがある。
3・11以降NO冷暖房を貫いた私が
サウナを利用するはずもなく
1年以上休眠状態のサウナルームを
解体することにしたのだ。

ログハウスを建てたときから
サウナを持つことは私の夢であった。
友人たちの協力を得て
母屋のほかに2棟の小さな丸木小屋を建てた。
1棟はゲストハウスに(ゲストのないときは私が使う)。
もう1棟をサウナルームにあてた。

セルフビルドしたその2棟には
私が打ち込んだ釘も多くあったはずだ。
バールとハンマー のこぎりとくぎ抜きを使い
私たちは釘を抜き 木をめくり 角ログをはずし
建物を解体していった。
釘が鳴き 木は悲鳴を上げた。
建てたときとは別の友人2人が
手際よく解体を進めてくれた。

サウナとシャワー施設を取り去った部屋は
さっぱりした広さとなった。
ここには本棚を作り
2台のベッドを運び入れよう。
そうすれば別の楽しみが生まれる。

サウナ部屋から出た大量の角ログを
庭の片隅に積み上げた。
はるばるフィンランドから来た木を眺めながら
一瞬心が「奇跡の木」に向かいかけた。
ここには奇跡を生むいかなる木もないが
私の無駄な生活を葬った
大きな墓標くらいは作れそうである。

「ほんなら陸前高田の1本松を使った
環境庁の看板と同じやないか」
そんな苦い感慨にふと囚われかけた。
でも気持ちはなぜかとても軽やかだった。
欲望を切り詰める覚悟もなく
原発廃絶を望んでも
その願いは
夢のまた夢に終わるだろう。


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ドナドナ

先週末郡山に行った。
当地の女性市儀2人と私たち
それに福島ハーメルン・プロジェクトの
志田さんを交えた5人で
小さな会議を持ったのち飯館村へ足を伸ばした。

飯館から郡山までの距離は20kmばかりである。
福島市を目指してレンタカーを走らせ
二本松 川俣を抜けて飯館へと向かった。
天気はよく高いところに深い青の空があった。
緑は燃え透明な太陽が
平原と森林の町に惠を与えていた。

安達太良山には残雪があり
車は途中阿武隈川を渡った。
「智恵子は東京に空がないと言ふ
ほんとの空が見たいと言ふ」
二本松にある「智恵子記念館」の前を過ぎるとき
自然にそのような詩が浮かんだ。

安達太良山には智恵子が詩ったように
ほんとの空があった。
しかし3・11以降
それはもうほんとの空とは言えない。
「あどけない空の話」はここにはないと感じた。

川俣を過ぎ海に向きを変えると
空気が一変した。
道路標識に相馬 南相馬 浪江など
テレビでなじみの地名が出現しはじめる。
車内の線量計の音がいっそう耳障りになる。
「高いなあ 車内で0.8もある」誰かが言った。
何のためかわからない道路工事が
あちこちで行われ
マスクもせずに作業員が働いている。
飯館に入ってしばらく進み
バス停の前で車を降りることにした。

外に出たとたん
静寂に耳朶を打たれた。
人や動物の姿は見えず車もいない。
家々はぴたりとカーテンを閉ざし
村の生活が一瞬にして固まったように
何もかもが静止し無言のままあえいでいた。
動きがあるのは異常な数値を示す線量計だけだった。
太陽が変わりなく中空にあるのが不思議であった。
1945年8月 15日の伝説の青空を思った。

バス停には人々の生きた証が残されていた。
おそらく村をあとにする直前に書いたのだろう
さまざまな落書き 張り紙 お守りがバス停を飾っていた。
せつない胸締めつけられる惜別の言葉だった。
ひとつひとつを読んでいきながら
飯館近辺の自殺者へと私の心は向かった。

牛小屋の壁に遺書残し自ら果てた酪農家。
「お墓に避難します」としたため命を絶った老農婦。
102歳で自死を選んだ飯館の最高齢者。
これらの人々の生き様が私たちの心を揺さぶるのは
そこに強い意志を感じるからだ。

どの死もきわめて個性的である。
押しつけられた運命を跳ね返そうとする
強い思いが表されている。
彼らは人としてのギリギリの尊厳を
死を通じてしか伝えられなかったのだ。

私たちはそれぞれの思いを抱え
無人の村をさまよった。
樋の下で測った線量は
毎時23マイクロシーベルトを示した。
チェルノブイリの高汚染地区を超える
信じられないくらい高い汚染である。

さらに村の奥に入ろうとして
私ははじめて飯館の音を耳にした。
ツバメが私の頭をかすめ
無人の人家の軒先へ吸い込まれていくところだった。
子ツバメが頭をのぞかせ
餌をねだっている。
ここ飯館を巣立ったツバメが
ふるさとに戻り
人々は飯館を追われる。
この対比に囚われていた私の心に
突如ジョーン・バエズの「ドナドナ」が蘇った。

「青い空そよぐ風 ツバメが飛び交う
荷馬車が市場へ 子牛を乗せて行く
もしも翼があったならば 楽しい牧場に帰れるものを」

この歌詞のせいなのか
自殺した酪農家への思いが子牛に結んだのか
青い空とそよぐ風が目の前にあったためか
飯館の真昼には
「ドナドナ」の重い歌がふさわしいと思えた。

「ドナドナ」はアメリカ民謡ではない。
東欧のユダヤ文化の歌(原題は「ダナダナ」)である。
そのためにこの歌詞には諸説がある。
子牛をナチスに連行されるわが子に見立てた歌であるとか
「ドナドナ」はイディッシュの神にあたる「アドナイ」の短縮形で
「主よ、主よ」と神にわが子の運命を託しただとか・・・・・・。

この歌から派生した言葉に「ドナされる」がある。
たとえば「車をドナされた」と言えば
レッカー車で移動させられたという意味になる。
無理やり連れ去られたり
譲り渡すことを強いられたり
強制的に壊されたりが「ドナドナ」の本意なら
飯館の人たちの今は
まさしく「ドナドナ」である。

私たちは小高い丘にある
飯館村の役場へと足を向けた。
そこでは避難を拒否した人たちが
「見守り隊」を結成して町を守っていた。

多くの車が終結し
人が集まっているのだけれど
どこにも笑顔がなかった。
空はあくまで晴れ渡り祝宴を叫ぶ。
私の心は再び敗戦の日の青空へと向かった。

その日と同じように
飯館は声を殺して慟哭していた。

今そこにある危機

大飯原発再稼動にあたって、
福島並みの地震と津波に見舞われても
関電の原発は安全だと野田首相は豪語した。
何と大きく出たことか。

福島第1原発を東日本大震災が襲ったとき
そこで何が起こったのか。
正確に知るものは世界中で誰一人としていない。
国会による調査は続いているし
これまでに出た事故調査の日本の報告書は
量も内容もきわめて貧弱なもので
事故原因が究明できたとは
お世辞にも言えないものである。

原因すらわかっていないにもかかわらず
同程度の地震と津波でも安全とは
何を根拠にそのような結論を下したのか。

原因の究明は少なくとも
ヒト(組織)・モノ(情報)・カネ
それぞれの分野で行われるべきである。

政府の安全宣言は
機械を点検・整備し安全性を高め
設備を補強して事故の拡大を防ぐから
もう心配は要らないと言いたげである。

つまりモノ(情報の問題は素通りであるけど)の破綻を回避すれば
事故は2度と起きないと結論づけたいのだ。
もしそれが日本政府の方針であるとするなら
国策として進めた原子力行政の致命的な瑕疵について
あまりにも甘い認識というほかない。

優れたジャーナリストや
良心的なメディアの検証によって
福島の原発事故は人災だったことが
日を追って明らかになりつつある。

原発そのものについての東電技術者の未熟さ
事故に対するマニアルの不備と訓練不足
安全神話に寄りかかった危機意識の欠如
安易なリスクマネージメント
情報の共有を阻むいびつな組織
情報が正常に流れない硬直した人間関係
地球上でもっとも危険な物質を扱う覚悟のなさ

ヒトの問題に限り
比較的簡単に思いつくテーマを上げても
これだけの項目が浮かぶ。
これらはいずれも徹底した組織改変と
社員教育 技術水準のアップ 意識改革によっても
達成がきわめて困難な課題であろう。

東電はまず社員の資質を変えなければならないだろうし
そのためには社風そのものを改める必要がある。
東電にこのような取り組みがあるとは聞かないし
ましてや他人事である関西電力が
大飯原発再稼動に当たって
このようなヒトをめぐる
リスクマネージメントをやっているはずがない。

日本を 世界を 地球を壊しかねない事故を起こしながら
子供だましの改良のほか手を加えず
現状でも大丈夫とはよく言えたものだ。

もちろん問題は東電だけではない。
もう一方の当事者である
政府 民主党 野党などの政治家と
彼らの根城である国会
実行機関である官僚組織も
懲りない面々であることに変わりない。

彼らは事態の大きさ すさまじさにうろたえ
迷走し 誤った方針を立て
国民の安全を守る使命を放棄し
女性や子供を含む多く人々を被曝させた。

彼らの思慮のなさ 
リーダー不在
無策 無方針
無責任な場当たり対応
国民の命より自身の政治生命が大事なみみっちさ
長期的なビジョンの欠如
覚悟のない及び腰。
これれらに由来する醜悪なドタバタ劇は
私たちの目の前で演じられたことだから
これ以上書く必要はない。

野田首相の自信満々の発言を聞くと
あのリーダー不在の無政府状態が
まるでなかったかのごとくである。
私たちはここでも問わなければならない。

次にマグニチュード9クラスの大地震と津波が来て
原発事故が起こった場合
福島の教訓を生かすために
何を考え いかに政治組織を強化し
政策を再検討し
リーダーシップが発揮できる政党にするのか?
あるいはできるのか?
もちろん彼らも関電同様
何もしていないのだ。

彼らがいつまでも能天気なのは
私たちがお上意識を払拭できず
彼らの政治責任を追及しないからである。
小説の題名ではないが
私たちはいつまで「優しくて少し馬鹿」なのだろう。
過失を追求するのは
その人を罰するのが目的ではない。
2度と事故を起こさせないために必要だからだ。

菅政権を引き継いだ野田首相には
原発事故に対する重い重い責任がある。
野田首相は「自分たちの党と内閣の誤った指示によって
多くの人々に被曝させてしまい申し訳ない」と
一度でも謝ったことがあるのだろうか。

大飯原発再稼動の許諾をまず最初に求めるのは
おひざもとの福井県民ではなく
関係する自治体でもない。
まず説明し納得してもらうべきは
原発事故で最も傷つき
辛酸をなめさせられている福島の人々である。

彼ら全員を前にして
「次に事故が起これば日本が壊滅するかもしれない。
しかし原発を稼動しなければ日本はやっていけない」
福島の人々をこのように説得することができるか。
そんなことができるわけはないし
福島県民も決してそれを許さないだろう。
なぜなら彼らの言語を絶する現在の犠牲は
再稼動によってまったく無意味になってしまうからだ。

NHKのニュースで野田首相は
「最悪の事態を想定して決断する」と述べた。
NHKのアナウンサーには
「最悪とは何ですか。日本の滅亡ではないのですか」
と強く迫った欲しかった。

もしこの上に1箇所でででも
深刻な原発事故が起これば日本は滅亡するだろう。
これは決して原子力に異常に敏感な
誇大妄想気味の悪夢ではない。
映画のタイトルと同じ
「今そこにある危機」なのだ。

舞踏する星

誰の説か忘れたが
頭の良し悪しを測るには
3つのいい方法があるそうだ。
それを適用してみて
なるほど私はバカと合点がいった。

まず第1のテスト。
地図を持って町を歩くとき
自分が進む方向に地図を向け
はじめて正しく方位がつかめる。
算数・数学の世界で言えば
線対称・点対称の課題である。
私は子供のころからこの単元が大の苦手だった。

第2ラウンドはこれである。
辞書を引けるか(早く引けるか)。
辞書は私のもっとも馴染み深い書物の一つである。
にもかかわらず「は行」と「た行」
「な行」と「ま行」の順序が怪しい。
そのためことあるごとに「あ・か・さ・た・な・・・・・・」と
指折って前後関係を確認しなければならない。
だから当然辞書を引くのは遅い。

最後はレシピ通りに料理が作れるかどうか。
私は料理の腕前は相当なものだけれど
レシピを読んでは作れない。
すべて直感に頼って料理する。
でもメチャうまい。
このようにチェックしてみて
私は三拍子そろったバカとわかったのだ。

自分の無能と関係あるのかわからないけれど
私は必要性の薄いものを覚えるのが苦手である。
たとえば電車の発着時刻がそれだ。
40年近く阪急電車の西宮北口駅を利用しているが
普通と特急の発車時間が覚えられない。
私はなんとなく家を出て
駅についてすぐに電車が来ればラッキー
出発したばかりなら
「あーぁ 行ってもたかー」の繰り返しである。

誰もが私のようだと思っていたが
大半の人は駅で待たなくていいように
頭の中に時刻表を叩き込み
乗り換えの時間 
目的地までの所要時間まで計算した上で
秒刻みで行動してると知った。
よくやるよと私は感嘆するばかりである。

私とそのような人を比べてみると
自分自身の中にどれだけ無秩序を抱えているのか
ということに行き着くのだと思う。
私は生活の隅々まで秩序づけることを好まない。
適当にユルユルで風通しがよく
不意の出来事や非効率を楽しみたいのだろう。

私が言う生活の隅々まで効率で染め上げるとは
次のような私の友人への仕打ちを指す。
彼にはポケットに手を入れて歩く癖があり
だらしなくカッコ悪いばかりでなく
それがズボンの傷みの原因になっていると
常々奥さんから注意されていた。

あるときいつものようにポケットに手を突っ込み
口笛でも吹きながら歩こうと彼は思ったのだろう。
しかしあるべきところにポケットがない。
彼はトイレに駆け込みズボンを仔細に調べてみた。
すると細い糸で両ポケットは縫い付けられ
後に細工は彼のすべてのズボンにおよび
ポケットに手を入れて歩く楽しみを
彼はその日を境に奪われたのである。

若者の理想の上司第1位に
大阪の橋下市長が選ばれたらしい。
私にとっては上司であって欲しくない人物
ダントツの1位である。
彼ならすべてのズボンのポケットを
縫い付けてしまいかねないからだ。

働きアリの法則というのがある。
100匹のアリのうち
本当に働いているのは80匹だけ。
残りの20匹は遊んでいる。
このサボリの20匹を取り除き
80匹の新たな集団を作ると
その組織はやはり2割の
働かないアリを生むという法則である。

100人の職員が100人とも
口も利かず 休みもせず
ひたすら汗にまみれて
働きまくっているなんて異常だろう。

100人の生徒と教師が
100人とも直立不動の姿勢をとり
ポケットに手を突っ込む不逞のやからもいず
日の丸を直視し 
声を限りに君が代を歌う光景は
想像するだにおぞましい。
そんな集団のズボンを調べると
きっと全員のポケットが糸で縫いつけらてれているはずだ。

国旗はダサいし
国家のメロディーはダルくて心弾まない。
歌詞と現在に生きる私たちの日常との接点を
見つけることはきわめて困難である。
そんな国旗・国家なら起立を拒んだり
「君が代」を歌わなくって当たり前ではないか。

私は日本という国が好きだ。
日本語を愛しているし
日本食は世界一との誇りもある。
日本の美しい自然も
かけがえのないものだと思っている。
しかしこの私の心の内を
声を張り上げ 起立して国家を歌うことで
表現したいとは決して思わない。
それとこれは別である。
秘めたる愛というものだってあるのだ。

80%の秩序に20%の無秩序。
それが正常な人間である。
その不完全さこそが
人間の人間たるゆえんである。
ものごとはうまく進まず
無駄が原因であちこちで停滞があろうと
全員が同じ方向を向いて
一糸乱れぬ統制がとれている社会よりはましである。

「舞踏する星を生むためには 
人は自身の内に混沌を残しておかなければならない」

ニーチェはこのように言った。
私も自分の中に混沌を抱えていようと思う。
無秩序を締め出しながら求める効率こそは
ファシズムの温床であるのだから・・・・・・。

人参シリシリ

「人参シリシリ」という料理を知っていますか?

先日大阪の十三でジョイントチームの会議をした。
会が終わり近所で飲もうということになり
沖縄料理の店で「人参シリシリ」に出会った。

沖縄方言で細かく切ることを
「シリシリ」と言うらしい。
つまり人参の細切りに
素朴なドレッシングがかかった一品。
味もいけていたが
何よりネーミングが気に入った。

「シリシリ」との遭遇に心騒ぎ
私はチームの仲間に打ち明け話をした。
「実は俺女性のお尻に目がない『尻フェチ』やねん」と。
そして自分の尻フェチ振りをつぶさに語り
いざ注文する段になって事件が起こった。
「すいません 人間シリシリください」
仲間ばかりでなく店内大爆笑。
恥ずかしかったー

恥ずかしいと言えば
ネット上には「恥ずかしい写真」というか
「けしからん写真たち」があふれかえっている。
その中には多くの「尻フェチ画像」も含まれ
私も写真への興味と閲覧において
決して無垢というわけにはいかない。

ネットでのデータの扱いは簡便だ。
都合の悪い情報は
ゴミ箱に放り込めばおしまい。
「けしからん写真」を覗いた私の閲覧記録は残るが
写真と一緒にゴミ箱で葬り去れば
「見なかったこと」にできる。
なんと便利なのだろう。

日々このような削除を繰り返しながら
私はふと妄想にとらわれることがある。
ゴミ箱送りした数知れない写真とデータは
いったいどこに行ってしまうのか?
削除は一時的気休めに過ぎず
膨大な「恥ずかしい写真」は
履歴共々一箇所にまとめて保存され
何かの手違いでそれは噴出し
衆人環視の的になるのではないか。
自分のフェチぶりが暴かれると想像するだけで
私は身のすくむ思いがする。
どうかそんなことが
起こりませんように

「核のゴミ」という言葉がある。
おもに使用済み核燃料棒をさす。
この「核のゴミ」ばかりは
パソコンのゴミ箱のようにはいかないのだ。

このゴミは完全に焼却できないばかりか
保管しておくゴミ箱さえ見つかっていない。
10万年という人の人生に比すれば
無量大数といえる時が経過しても
まだ安全でないやっかいなゴミ。
これをどうするつもりなのか?

私は何が言いたいのだろう。
「人間シリシリ」の観点から見ても
人類が原発を利用することはおぞましく
反原発こそ恥ずかしくなく生きる
私たちの唯一の道と主張したいのだ。

5月5日 日本のすべての原発が止まった。
国も関電も原発を稼動しなければ
夏のピーク時に電気は足りなくなる。
そうなれば節電ばかりでなく
値上げも必要だと脅している。

節電OK 値上げもやるならやってみるがいい。
しかしその前に東電がそうであったように
高額の人件費カットや組織改変 資産売却などを徹底し
値上げ幅を可能な限り圧縮するよう要求しよう。

その上で値上げに踏み切るなら
余裕のある人は払えばいいだろう。
ない人には国が援助をしてしかるべきである。
財源には電力会社と原発で大もうけをしてきた
東芝 日立 三菱など全原発産業に課す
「原発税」をあてればいい。
この税金など原発事故が起これば発生する
賠償金の前倒しと考えれば安いものだ。

原発を再稼動するには
「原発税」をすべての電力会社および
日本のトップ企業に課するくらいの覚悟が必要なことを
為政者たちはわかっているのだろうか・・・・・・・・?

今日は連休最後の日。
「子供の日」からはじまった「NO原発」が
この先いつまでも続くことを祈念し
久しぶりに十三へ足を運び
「人参(人間?)シリシリ」でも食べてこよう

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