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国家を裏切る勇気

心を汚す恐れのある煩悩を
仏教では「3毒」と呼ぶ。
「トン ジン チ」がそれである。
トンはむさぼり。足るを知らず求める欲。
ジンは怒り。自分は偉いと思う心から生じる。
チは無知。知恵 理性的な考えの欠如である。
トンもジンも無知に由来する。
つまり無知こそ諸悪の根源。
これが仏教の教えである。

私はそれほど貪欲でないから
「トン」は合格だろうと思っていた。
しかしそれはとんでもない間違いであった。
むさぼりは「渇愛」と表現されるが
3種類の欲で成り立っている。
五感を喜ばせたい 生きたい 壊したい。
たとえばきれいな女性に心を奪われる。
美しい音楽をもっと聴きたいと願う。
子どもや孫をいとおしく思う。
これらはいずれも「渇愛=トン」である。
私は喜びと快楽が大好きだ。
だから「トン」の克服は難事である。

私は怒りっぽいとよく言われる。
自分では違うと思っているが
おそらく人のいうのが正しい。
私は自我が強い。時に強すぎる。
本年の1月29日に
自我の肥大をテーマに
「『自我自賛』の戒め」というブログまで書いたほどだ。
怒らないように自戒するが
「ジン」からの解放も困難である。

私の人生を振り返れば何もかも半人前だった。
人並みにやれたと思えるのは
子育てと物事を突き詰めて考えること。
このふたつしかない。
そのような自覚から
私は「トン・ジン・チ」のうち
無知を自分に許すことはできない。

昨今の問題に引き寄せて言えば
無知であるゆえに原発建設を許容した反省から
その原発が起こす事故によって
孫や子ども世代の未来を
同じ無知が奪ったり 破壊してはならない
と強く思っている。

そうは言っても「チ」は最大の難敵。
仏教で説く知は単なる知識ではなく
「還りの思想=知恵」でなければならない。
さらに言えば知恵で血を流す覚悟をもたなければならない。
やっぱり「3毒=煩悩」を遠ざけるのは
いずれも大変だわ(笑い)。

複数の送信者から送られてきた
ドイツZDFが制作した「フクシマのうそ」を見た。
なかなかよくできた作品であった。
まだ見ていない人のために
私も拡散に協力しよう。
http://uesugitakashi.com/?p=1203

その翌日に友人から借りた
「プロメテウスの罠」を読んだ。
テレビ番組と書物の違いはあるけれど
どちらも同じテーマが共鳴していた。
「教育の劣化」と言えばいいのか
「知識人たちの底知れない堕落」
これこそ現代日本の最重要課題であろう。

私は大学中退である。
正確に言えば退学処分で学校を追い出された。
退学処分は各学部教授会の専権事項である。
私が卒業を許されなかった学部は
2000年に創立40周年を迎えた。
数ある記念行事の中に
「社会学部創立40周年記念連続講演会」があった。
その講演会の講師に同じ教授会が
大勢のOBの中からただ1人
放校にした私を選んでくれたのたのだった。
私は教授会の計らいがうれしくて
喜んで講演を引き受けた。

「語り継ぐべきもの-世代の連続と不連続-」
というテーマでの講演で
私は次のように語った。
社会学部紀要から写してみる。

「それぞれの人がどう生きるかということを、
”理念”として捉えた場合、私が考えたのは、
『理念というのは、突き詰めていくと個人の欲望や利害と
衝突せざるをえないものだが、個人の欲望や利害を優先させ、
理念をねじ曲げてしまうのは間違っているのではないだろうか』
ということです。それと、『大学とは本来の理性や理念的生き方を教える場で
それらが教えられていないという現実が良くないのではないか』
ということでした。現在では、理念や理性は物事を効率よく処理するためや、
都合よく扱うために用いてはならない、という考え方もあると思いますが、
当時の私は”理性の手段化”という言葉も知りませんでした。
ただ『理念的に生きるということが、個人にとっては公共的な立場をとるに等しい』
という結論を、大学時代に得たのです」

私が教育の劣化と呼び
知識人の堕落というのは
個人の利害や欲望が理念と相容れないとき
真理の側につくのではなく
利害や欲望を優先する立場を指している。

ドイツのテレビも
「プロメテウスの罠」でも
知識人たちが公の理念よりも
会社や自分の立場・利益を守るのに汲々とし
あさましく振舞う様を
どれほど多く見られることか。

特権的な立場を利用して反対意見を抹殺し
データを隠蔽 改ざんし 
うそをつき 徒党を組んで陰謀をめぐらし
予算を凍結して都合の悪いデータが出るのを妨害し
監視役をつけて個人の発言をチェックし
データを盗み見して反対の立場の人間を追い詰め
被害を過小評価して国や東電を助け
無主物なる法の抜け道を見つけては
それで雇い主の利益を守り
現場の作業員を口止めし 
陰湿かつ執拗な圧力で立場の違うものの息の根を止める。
これを理性の手段化 知識人の堕落と言わずして
なんと呼べばいいのか。

これらは原発事故にからんだ特殊な現象ではない。
たとえば最近大阪あたりから聞こえてくる
子どもっぽく 下品で残酷な空騒ぎも
この類のものである。
本当に国歌を歌っているか口パクを監視したり
同僚をスパイ・密告したり
心の中まで管理の目を光らせたりも
教育の劣化、荒廃以外の何者でもない。

このような教育によって育てられた子どもは
友人や同僚を売ることなど朝飯前の
原発問題で暗闘を繰り広げた
知識人たちよりはるかにたちの悪い大人に
成長するするだろう。

私の友人に酔っ払いのカナダ人がいる。
彼はろくなことしかしないが
1つだけまともな発言をしたことがある。
「俺はネコをいじめる人間と
つまらない規則で罰そうとするヤツは大嫌いだ」と。
国歌を歌うか歌わないかなど
その類のつまらない規則ではないか。

かつてイギリスの大知識人EMフォスターは
このように言った。
「国家を裏切るか親友を裏切るかを迫られたとき
私は国家を裏切る勇気をもちたい」と。
私たちが待望するのは
子どもじみた魔女狩りに狂奔する政治屋ではなく
我欲よりも理念を尊ぶ気骨ある知識人である。
それ以外にこの日本を建て直す道はない。
私も友人を裏切るより
国家を裏切る勇気のある人間でありたいと思う。

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いい湯だな!

豊岡市日高町は大雪だった。
私が訪ねた
湯の原温泉オートキャンプ場一帯は
トンネルひとつで
スキーで名高い神鍋高原と結ばれる
兵庫県下有数の雪国である。
しかしあと1週間で4月というこの時期
ドカ雪に出迎えられるとは夢にも思わなかった。

看板

円山川をさかのぼり
20キロばかり進めば日本海に達する。
あたりは山陰海岸国立公園が広がり
その中核にあるのが城崎温泉である。

昨年の12月末
その城崎の沖合いで
小船が発見された。
船籍は岩手県の大槌町。
およそ1200キロも離れたところから
津波にさらわれた小型漁船が
但馬の海に流れ着いた。
所有者を調べると
津波で命を落としていた。

2週間前の3月11日
震災1周年となるその日に
日高町や隣接する香美町の有志住民が
その船をトラックに載せ
持ち主の遺族に返還した。
この無関係に見える出来事が
思わぬところで私の日高町訪問の目的を
後押ししてくれることになった。

日高町には昔から親しくしている姉妹がいる。
妹がハーメルンプロジェクトジョイントチームの
コアメンバーに加わり
活発に活動してくれたおかげで
雪と霧で有名な山間の小さな町で
活動への理解が広がりつつあると聞かされた。
福島の子どもたちの一時保養に利用できそうな
キャンプ地もそこにはあるというので
私は日高町へ足を向けることにした。

姉のほうはと言えば
水と墨と紙という簡素な素材で
自然を直線と曲線の集合にまで抽象する
墨象画の作家である。
住民が船の返還に力を尽くした香美町で
彼女の個展がたまたま開かれることになり
それを妹が福島の活動に結ぶことで
予想外に大きな反響を生む結果となった。

個展開催の経緯は
数紙で報道されたようであるが
手元にある「日本海新聞」で
その様子を追ってみよう。

「福島県の子どもたちを原発事故による被ばくから守る活動に
アートや音楽を役立てようと 豊岡市日高町羽尻の伊地智惠子さんによる
『墨象展』が3月17日~19日の3日間 香美町村岡区高井のギャラリー
『風露庵』で開かれる。(中略)伊地智さんは、墨と水で描く抽象画
『墨象』に 地元・湯の原温泉の温泉水を使って取り組んでいる。
同温泉のキャンプ場へ福島の子どもたちを一時保養に招く活動に関わっており
その一助になればと今回作品展を計画。『風露庵』を経営する
田口榮子さんに協力を依頼し 会場の提供を受けた」

このような新聞報道もあり
個展は船が取り持つ縁で
被災地を身近に感じる人たちでにぎわい
福島の子どもを町で受け入れようという機運も
一気に高まったという。
その具体的な表れが
個展で集まった20万円を超える寄付金であり
私はそれを預かる僥倖にも恵まれたのだった。

雪景色

今は雪景色。遠くにバーベキュー棟とサニタリー棟が見える。

豪雪地帯のため冬季は休業の
オートキャンプ場に私は泊めてもらった。
四方を高い山に囲まれたキャンプ場は
果樹園や体験田も有し
立地 設備も申し分ない。
さすが4ツ星認定のキャンプ場である
小さな瀬が場内を貫き
点在するコテージ バーベキュー棟 サニタリー棟は
いずれも周囲と調和した山小屋風の建物。

圧巻は露天風呂つきの天然温泉である。
雪の降る中露天風呂を独り占めし
私は福島の子どもたちを招いた
一時休養キャンプの成功を確信した。

露天風呂

一流の温泉宿にも引けをとらない露天風呂。

いい風呂だったなあ!

なお4月14日にジョイントチームが参加する「甲東園バル」が
阪急の「甲東園駅」周辺で開催される。
その特別イベントとして伊地智さんの個展
「墨・旅する水-小さな個展から福島の子どもたちへⅡ-」が
魚住由紀さんの講演や陶芸教室などと一緒に開かれる。
こちらも日高町の展覧会の続編として
盛況であればいいのだが・・・。
みなさんぜひご来場ください。

キックオフパーティー

11日にジョイントチームの発会式をやった。
今風に呼べばキックオフパーティー。
淡路島にある私のログハウスに
49名の人に集まってもらった。

欠席者は四国在住のバンジョー奏者
淡路島で農業を営む2人の青年。
神戸から40分足らずの距離とはいえ
高額の通行料がかかる明石大橋を超え
これだけ多くの人がよく集まってくれたものだ。

顔ぶれはきわめて多彩である。
福島・東京から避難している人が
子どもも加えて7名
2組のバンドが応援に来てくれ
バンドメンバーは総勢6名

飲食店経営者3名 カフェ経営者1名+その母親
新聞記者1名 ラジオ放送局記者が1名
テレビカメラマン1名 格闘技道場のオーナー1名
元雑誌編集者1名 棒気功術師匠1名+その弟子1名
市議会議員1名+その演劇仲間4名 色彩コンサルタント1名

残りは会社員であるがその業種もまた多様である。
情報サービス関係2名 IT関連1名 共済年金関係1名
美容関連1名 編集関係1名 福祉関係1名
病院関係1名
これにコアメンバー9名とスペシャルメンバーである
デザイナー1名を加えて主催者側は10名。
全部あわせて49名となったのである。

バンド

写真はバーボンブラザーズ。

その週は雨が降り続いたが
超が3つくらいつく晴れ男の私が
「絶対晴れる」と託宣し
レインコートイベントの準備をしなかった。
午前中は久しぶりの晴天。

ところが天気予報どおり3時ごろから
雷が吠え出し大粒の雨も。
とっさの会場変更でその難局も乗り切った。

会場外

こんなにいい天気だったのにの写真

室内に観客席を移し
参加者同士が密着するなどして
心はかえって1つに。
好天から荒天への切り替わりは
パーティを好転させる結果になった。

パーティを通してしみじみよかったのは
被災者の方たちの訴えだった。
心にしみた。もっと支援をしなければと思った。

会場中

ほら仲良くなっているでしょ?

真理子さん

ド迫力のブルースに唖然。紅白当確の声も。


パーティーの参加費は129500円にのぼり
オリジナルTシャツは64枚売れて128000円の売り上げ。
これらは後日ハーメルンプロジェクトに寄付することになる。
また代表の志田さんの参加があったので
梅田の若者向き居酒屋「遊神」が集めてくれた浄財43715円は
オーナーのスミエ姉さんから直接志田さんに寄付してもらった。

とにもかくにも何とか成功した。
皆さんありがとう。
今後ともご支援をよろしくお願いします。


専門馬鹿と馬鹿専門

40年前私は27歳であった。
丈夫で元気そのものだった。
どれほど元気だったとか言えば
焼肉なら1人で1~2キロは食べた。
にぎり寿司を22個平らげたこともある。
ビールは中ジョッキー32杯が記録である。
急性アルコール中毒で3度病院に担ぎ込まれた。
その中で鮮明に覚えているのは
ビアジョッキーになみなみと入れたウイスキーを
一気飲みしようと杯を上げ
そのまま後ろにひっくり返り気を失ったことである。
元気すぎて死ななかったのが不思議なくらいだ。

病みあがりを割り引いても
いまではビールは中ジョッキー1杯。
焼酎を1合 ワインはハーフボトル1本で十分。
焼肉にいたっては往時の4分の1か。

腸閉塞は患ったけれど
体はまだまだ丈夫のはずなのだが・・・。
血管はボロボロであろうし
骨はきしみ 歯茎は緩む。
筋力は日増しに衰え 
内臓はどれも疲弊しているに違いない。

今回入院をして
さまざまな臓器を私は映像で見た。
食道 胃 十二指腸 小腸 大腸。
気のせいかどの臓器も活気がないように思えた。
計測したのは心電図による心臓機能 血流と血圧 肺活量 
異常はないが若々しいとは言いがたい。
仕方がないだろうもう40年も酷使しているのだ。
悪くなっていないほうがおかしい。


私は自身の衰えを訴えたいわけではない
27歳の自分を振り返ったのは
福島第1原発の原子炉が稼動し
40年になる意味を考えてみたかったからだ。
原子炉はどこもかしこも
私の体以上にボロボロに違いない。

私が食物として体に取り込むのは
ほとんどが自然物である。
当然毒性はないか あってもしれたものだ。
しかしながら原子炉内を循環するのは
地球上でもっとも毒性の強い放射性物資である。
私の体と比較にならないほど
ガタがきているだろう。

福島ばかりでなくどこの原子炉も
老朽化が進んでいる。
それでもなお老いさらばえた原発に依存し
発電を続けなければならない事態は
今の私の体でNFLのラインメンに
ガチンコ勝負挑むより無謀なことである。
勝ちっこないだろう。
少しでも理性があれば
すべての原発をあきらめ
新しい道を探すのが
まっとうな考えとわかろう。

私が今の体力と比較した27歳のときより
さらに遡ること3~4年
大学はいわゆる学生運動で大荒れだった。
政治が大嫌いな私でさえ
大学の経営しか眼中にない
非知的な雰囲気に嫌気がさし
学生運動に飛び込むこととなった。

その渦中で耳にした話題で
今でもその痛快さに頬が緩む話がある。
ある大学で教授会と学生の話し合いがもたれた。
1人の老教授が学生の質問に答えようとすると
学生がこうさえぎった。
「俺たちはそんな専門馬鹿の言い訳を聞きたくないよ」と。
専門馬鹿とは当時の流行語で
専門分野には精通しているが一歩そこを離れると
無能で社会性のない学者をさす言葉だった。
非難された教授は静かな口調でこう反論した。
「僕たちは専門馬鹿かもしれない。だけど君たちよりはましだ。
だって君たち学生はみんな馬鹿専門だろう」
そう言うなり教授は悠然と部屋を立ち去ったそうだ。
今このように書き写していても
教授の言葉と態度に「立派」と
私は拍手を送りたくなる。

先日原発に関する本を読んでいたら
安全性についての興味深い記述に行き当たった。
「どんな完璧なシステムでも馬鹿者が安全の証明を破る」
意訳すればこのような表現だった。

「完璧な」はパーフェクトなどではなく
「foolproof」と言うらしい。
「fool」は「馬鹿者」であり「proof」=「証明」である。
つまり完璧(「foolproof」)なシステムであっても
1人の「馬鹿者=fools」が事故を引き起こし
安全性の「証明(proof)」は破られてしまう。
つまり安全神話なんて虚妄だという
ひねりの利いた警告である。

この70年代の図式を現在にあてはめれば
原発の推進にしか頭にない「専門馬鹿」と
完璧なシステムをいつ壊すとも知れない
「馬鹿専門」の対立のようにも思える。

しかしながら「専門馬鹿」に関して言えば
70年代に生きた教員たちには
少なくとも真理への敬意と
それを可能な限り守り抜く気概くらいはあった。
また科学の階級性というか
自分たちの学問は誰のために使われるべきかを自問する
真理の徒としての誇りは失っていなかった。

それが現代の「専門馬鹿」たちははどうだろう。
彼らにとっては金と自分の立場を守ることがすべてである。
国や企業の利益は何をおいても守るべきであり
そのためには科学的真理を捻じ曲げることも辞さないし
国民の命や健康 幸せな生活などを犠牲として差し出すことくらい
なんでもないことなのである。

私たちの社会は
いつからこれほどまでに
経済重視を徹底するシステムになったのか。
人々が深刻な放射能被曝に危険にさらされ
子どもたちの未来が奪われようとしていても
気になるのは目先の利益である。
人間が滅ぼうとと金が回っていれば問題ないという倒錯した考えは
どこから湧き出て市民権を得るにいたったのか。

ガンにかかる危険性が増えようと
若者たちが安心して子どもを埋めなくなる社会になろうと
放射能により遺伝子が傷つけられ
健やかな赤ん坊が生まれない事態に陥ろうと
日本経済さえ堅調であれば
それでよしとする現代の「専門馬鹿」たち。
私たちは今そのような世界に生きているのである。

であるならせめて私たちくらいは
70年代の「馬鹿専門」を抜け出し
大人世代として責任を果たさなければならないのではないか。
このような問いにうながされ私は
ハーメルンPJジョイントチームを
作るきっかけをつかんだ。

ものすごく身近で ありえないほど遠い

予備知識のない映画を見る基準は
タイトルであることが多い。
先週の金曜日に見た
「ものすごくうるさくて ありえないほど近い」は
その典型的な例である。

昨年の2月19日と20日
家族で城崎に行った。
メンバーは長男と彼の恋人。
シンガポールに住む長女
それに彼女の娘の3歳になる孫の5人だった。

日本海の冬の味覚
カニを求める列車の旅をした。
贅沢なカニ料理を食べ
地酒と地ビールに酔いしれ
寝る寸前になってカラオケに行った。

家族以外のメンバーなら
私はマイクを独占する。
しかし子や孫が一緒なら
若い世代にマイクを譲るくらいのたしなみが
父である私にないわけがない。
それでも最後の1曲でも
私の歌を聞きたいかと思い直し
私は佐野元春をトリで熱唱した。

機嫌良く歌い終えるや
孫が娘に訴える声が聞こえた。
「お母さん 長くってうるさかったね」と。
3歳にしてなんと的確なおちゃらかし。
子どもたちが爆笑するなか
「どの可愛いお口がそんなひどいこと言わせるわけ」
と切り返すのがせいぜいであった。
孫の言葉が時を経て私にこの映画を選ばせた。

映画がはじまる頃までには
私はその映画が
9・11の同時多発テロ事件で
父親をなくした子どもの
喪失をテーマにした作品だとわかっていた。

映画の冒頭のシーンで
私がこの映画を選んだのではなく
映画によって私が選ばれたと感じた。

主人公の父親は
ツインタワーでテロに巻きこまれながら
多くの犠牲者同様死体が見つからず
遺族たちは空っぽの棺おけを前に
葬儀と埋葬を形どおりにすまそうとする。
多感な少年がこの大人の「葬式ごっこ」を許すはずはなく
彼の心の中では空っぽの棺おけが
彼の喪失感の象徴として
いつまでも残り続ける。

喪失とはただ何かをなくすことではない。
自分の一部をもぎ取られることであり
あるはずのものが
あるべき場所にないことを
受け入れさせられることである。

喪失は私にとってなじみの
家族の物語の主調音である。
それは母から私に伝えられ
私の子どもに伝播し
孫へと引き継がれるはずのものだった。

最初の喪失物語には母の弟が登場する。
彼は学徒動員で太平洋戦争末期に南方戦線へ従軍し
1週間もたたずして戦死してしまった。
終戦間近に送り返された骨箱には遺骨はなく
空っぽの箱の底に名前の書いた紙が1枚入れられていた。
それを目にするや家族の前で涙を見せたことのない
母の父(私の祖父)は声を上げて泣いた。

次の喪失物語は母自身のものである。
アメリカ生まれの父は
NHKの対米謀略放送に従事し
敗戦によるアメリカ軍の逮捕を免れるため
鳥取県の寒村に身を潜めその地で客死した。
土地の習慣である土葬をするのに
母は村の共同墓地の一角を借り
座棺に納めた父を埋葬しなければならなかった。

ほんの少し土をのければ
懐かしい夫(父)の顔をもう1度見ることができる。
埋葬後は母は1日も欠かすことなく私を連れて墓参し
その誘惑と戦わなければならなかった。

この母の喪失感を30年後私が引き継ぐことになる。
父の没後30年を記念し
土葬されている父の墓を掘り
自分の側に連れ戻したいというのが
母親の念願であった。

姉たちとともに
私は父の改葬のために鳥取に向かった。
座棺に使用された樽の形に丸く穴を掘り
樽材の埋もれ木をよりのけながら
底まで掘り進んだけれど
遺骨は見つからなかった。
映画の少年が経験したような
空っぽの棺おけが私たちの前にあった。

「水に流されたかな」
「それとも盗掘か」
村人同士でひそやかに交わされる会話に
私は割り込んだ。「盗掘があるのですか?」と。
村人の一人が言いにくそうに説明してくれたところによると
このあたりでは不治の病であった結核の特効薬に
人間の生の肝臓が効くとの言い伝えがあり
埋葬した夜に盗掘に合う事例が多くあったとか。

奇妙な方向にねじれかけた私の喪失感は
村人の指摘によって破られた。
「これがお骨じゃあないの」
埋もれ木として捨てていたものの一部が
骨とわかり一件落着。
火葬したのち私は遺骨を母の元へ帰したのだった。

この私の心に居座った喪失感は
その後もさまざまな変奏を繰り返すことになる。
1995年の阪神大震災での被災体験
2011年の東日本大震災の地震と津波
それと福島原発事故によるふるさとの喪失。

映画の中で仲良しの父子は生前
「生き地獄」や「公然の秘密」「小さな巨人」などの
「矛盾語遊び」が大好きだった。
彼らが語ったこの矛盾語は
彼らの喪失のありかを伝えている。

映画の主人公にならってみれば
3286名の行方不明者の肉親たちは
あるべきものが自分の手元にない矛盾に苦しめられ
また帰るべきものが帰っていない不一致が
彼らに共通する喪失感となろう。
また物理的にそこにありながら存在しないふるさとは
原発事故によって福島を離れざるをえない
人々の喪失を語っているだろうか。

ハーメルン・プロジェクトジョイントチームを通して
震災に関わる私の心の深層には
家族が紡いだこのような喪失物語が響いている。
それは私が克服すべき課題であると同時に
被災者自身も乗り越えなければならない
ある種の壁なのかもしれない。

「ものすごく身近で ありえないほど遠い」
これは東日本大震災の多くの被災者の
ふるさととの距離を代弁していないか。
映画を見ながら私はそう思った。

追悼文

3月11日が近づくにつれ
震災後に相次いで亡くなった
友だちのことが思い出される。
そう振り替えるまもなく
本年の1月7日にまた友人が死んでしまった。
ハーメルンプロジェクトジョイントチームの
事務局長をしている北岡響の父親である。

彼の母親は2009年9月10日 
ガンでこの世去った。
彼女の命日が忘れがたいのは
私の母親が99歳で死んだ2週間後であったからだ。
父親は昭和の終わりと同じ日に帰らぬ人となった。

北岡響の両親は共に私の大学の後輩だった。
もうひとりの後輩を加えた4人で
私たちは学林舎という教材会社を作った。
30年以上前の話である。

会社の業態が教材会社になったのは
北岡響の父親が塾の先生をしていたためである。
塾を立ち上げた数年後に
彼は塾の講師として私を雇ってくれた。
アルバイトジプシーであった私には
放浪生活に見切りをつける転機となったばかりか
のちに教材会社の共同経営者となるきっかけともなった。

北岡の家で開いた塾での日々に
先生失格の私にはほとんどいい思い出がない。
たったひとつのすばらしいものは
その教室で私は新潮新人賞の受賞の知らせを聞いたことだ。

授業をやりながらもその日は落ち着かなかった。
いつ電話が鳴るのか
私は英語を教えながら2階の音が気になった。
不意にベルの響き。
私は階段を駆け上がった。
電話で相槌を打つ私を
北岡響の母親はじっと見ていた。
電話を置くより前に
彼女は私の受賞を確信し
両手を広げて私を待ち受けてくれていた。
熱いハグ。甘美な思い出。
しかし彼女ももういない。

父親から社長業を継いだ北岡響から
学林舎の情報誌に
父親のことを何か書いてほしいと頼まれた。
以下にその情報誌の文を転載する。

追悼文「北岡へ」

花に埋もれた祭壇には遺影があった。
いい写真だった。
ネクタイにスーツ姿。
わずか5年ばかり前のものらしい。
ひと粒だねの喪主北岡響の結婚式での1枚。
全体が青っぽいのは
式をした南国の空のせいかもしれない。

そしていつもの笑顔があった。
しかしあれは笑顔なのだろうか。
私にははにかみとしか映らなかった。
学林舎の創業者である北岡輝紀は
はにかみ屋だった。
言いたいことを飲み込んだような
当惑の表情をいつも浮かべていた。

かれこれ30年ばかり前だろうか
自作の数学教材を見せてくれたときも
その顔にははにかみがあった。
「これ塾に売れへんやろうか?」彼は恐る恐る言った。
「売れる、売れる」私は言下に保証した。

彼が何年もかけて
数学教材に磨きをかけているのを
私は同じ塾の講師として目撃していた。

もともとは北岡が塾を開き
苦手の英語を教えるのは苦痛という理由で
映画業界から足を洗ったばかりの私を
呼んでくれたのだった。

私たちはその後2つの塾を立ち上げた。
彼は生徒からの人気も力もある講師であった。
私はその逆で人気もなく
教えることも下手だった。
ただ昔から私は営業ができた。
その私の目から見て
この教材は絶対に売れるとの確信があった。

授業が終わると
私たちはよく酒を飲んで議論をした。
その席で彼がこう言うのを
私はしばしば耳にした。
「ここのところで生徒から質問されてん」
自分が作った教材のページを指差しそうつぶやくと
彼は悔しさをにじませた。
私が思い出すことのできる北岡の表情は
はにかみと悔しさの2色しかない。

北岡輝紀は生徒からの質問を
敗北ととらえていた。
誰の手も借りずに解説を読み進み
1人で問題を解き
答え合わせができなければ
教材ではないと彼は考えていた。

「生徒と一言も話したないねん」
彼は自分の理想をそう打ち明けた。
「生徒が質問したということは
解説に飛躍があったということやろ。
それがつまづきの原因になる」

このようなある種奇妙な
教育哲学によって生まれたのが
学習業界に学林舎の名前を残すことになる
名著「数学単元別テキスト」である。

北岡が「塾で売れるか」と聞いてから
およそ1年後だと思う。
私たちはいよいよ営業に乗り出した。

その日は梅雨の大雨だった。
運転免許のない私に代わって
北岡は運転手役を買ってでた。
私たちは尼崎・伊丹・西宮の塾を巡り
飛び込みの営業をかけた。

彼の原稿はボールペンで
コピー用紙か何かに書かれたものだった。
私の記憶に間違いなければ
「一次関数」のテキストであった。

どこの塾でも門前払いに近い形で相手にされず
教材を見てくれるところもほとんどなかった。
手書き教材は雨に濡れてしわがより
ボールペンのインキはにじんでいた。
あまりの体裁の悪さに
塾の先生は私にこのように聞いた。
「これを本当に売るつもり?このままで?」
私は聞かれている意味もよく解せず
昂然として「そうです」と言い放った。

車で待つ北岡のところに戻るなり
私はこのように言った。
「今の先生なあ、刑務所から出所したばかりのオッサンから
パンツのひもを押し売りされて困った、という顔しとったで」
私の報告を聞くと
彼は濡れた原稿をしみじみ眺め
いつもの当惑というか
はにかんだ表情を浮かべたのだった。

絶対に売ると豪語しながら
本当に売れはじめるまで
それからなお1年以上かかった。

私たちは当初の手書きスタイルにこだわり
パンツのひもからははるかに進化したが
おそらく業界で初めての
全編手書き文字のユニークな教材を作りあげた。
それが学林舎の原点であり
かつロングセラー商品として
今も売られ続けている
「数学単元別テキスト」である。

2000年に入ってから
私と北岡輝紀とはほとんど交流がなくなった。
その間に彼は大病し
奥さんのマルコ(北岡麗子)がガンになって
再び会うようになった。
彼は原因不明の病に犯され
はにかんだ表情のまま行き暮れていた。

ちょうど深い霧に覆われた森に迷い込み
呆然と周囲を見回しているという感じだった。
ひと一倍明晰を好んだ彼には
この不分明はきっとつらい体験だったろう。

その北岡が1月7日に他界した。
お別れのために棺をのぞくと
霧に洗われたような真っ白い顔で横たわっていた。
痩せてはいたけれど穏やかで
濃霧を抜け出た安堵の表情があった。

彼は死ぬことによって
再び明晰を取り戻したように私には思えた。








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