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愛らしい少女

私はおだてに乗りやすい。
前回のブログで
はじめて画像がアップできたことで
何人かの友人にほめられた。

とてもうれしかった。
それで調子に乗って
再チャレンジしたのである。
おだてに乗りやすいというのは
ほめられるのが過度に好きと同義なのだ。

愛らしい少女

この画像は
ハーメルン・プロジェクトのホームページである。
ジョイントチームの始動に合わせて
本体のハーメルンPJもリニューアルすることになり
それがこのような形になりつつある。

イラストをお願いしたのは
前回紹介した藤井一士さん。
藤井さんとは30年来の付き合いである。
彼の視覚的表現によって
私の仕事にどれほど彩りが与えられたか
いくら感謝しても感謝し足りない。

当初私には3つのイメージがあった。
福島県の地図をある種の色の塊として
どこかに配すること。
下部に目から上だけを出し
帽子を被った少年がこちらを見ていること。
福島第1原発のアイコンがあること。

このデザインの成否は
少年にかかっていると私は思った。
私が藤井さんに出した注文は
少年は明るさと悲嘆を
あわせもった表情をしていることである。

無理なリクエストは承知の上である。
しかし彼の技量は私の杞憂を吹き飛ばし
望んだ絵をほぼ実現してくれた。

今回の仕事ではこれまでと違うルールが1つあった。
絵には藤井さんのサインを入れ
作品の著者性を鮮明にしたことである。
俵万智とのコラボレーションで
彼の個性を際立てることが
今後さらに必要になるはずだから。

もうひとつ私と彼の間に
約束というか共通の目標があった。
ポスターやホームページの壁紙ばかりでなく
Tシャツやパーカーなどのグッズの
デザインにも転用する予定のイラストやコピーを
私たちの代表作にしようという意気込みである。
これが藤井さんの署名にこだわった理由でもある。

送られてきたラフ案を見て
私は驚いた
少年とお願いしたつもりだったのが
絵は少女になっていた。
私が間違っていたらしい。

少年という設定を貫くか
少女に変更するのか私は迷った。
私に少女を選択させたのは
ある偶然だった。

この年末福島から
ハーメルン・プロジェクト代表者の志田さんが
家族と共に淡路島に来た。
2泊3日の予定である。
奥さんと2人の子どもとは初対面であった。

現れた子どもたちの可愛いこと。
天使のようななどの陳腐な表現を使いたくないが
まさにエンゼルのきらめきである。

放射能被爆の危険性から
この子たちを守るためなら
疎開でも何でもする。
親ならぬ私でさえ
そう思わせるくらい愛おしい兄妹である。

彼らが到着したとき
私はまさに男の子か女の子を決めかね
混迷のうちにあった。
志田さんの娘を一目見て
私は「これだ」と思った。
偶然にも藤井さんによって描かれた少女は
愛称「アンちゃん」に生き写しだったのである。

福島で被災し
岡山に避難していた女の子が
モデルの役割を果たしてくれるとは
私はその僥倖に感謝した。
これが壁紙の誕生秘話である。

このブログを書いているときに
11人の中国人と1人のオーストラリア人が
ログに到着した。
彼らと年末年始を一緒に過ごす。

昨日は息子と彼女に
彼らの友だちのカナダ人も加わり
8人で過ごした。
今日はさらに11人増える。
このようなうれしい混乱が1月2日まで続く。

楽しい年末年始である。

5月にスターとしたブログは
今日で最後となる。
ご愛読ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。

また来年お目にかかります。
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連帯を求めて 孤立を恐れず

やったー
ホームページにはじめて画像が取り込めた。
やればできる。
必要なのは元気と情熱だ。

これはハーメルン・プロジェクトを支援する
ハーメルン・プロジェクト ジョイントチームのポスターである。

ハーメルンプロジェクト

このプロジェクトで
私たちが何をしたいのかは
ポスターを苦労して読んでもらえばわかる(お願いします。無理ですか?)。
もちろんこのプロジェクトが動きはじめるまでには
さまざまなチラシをつくり
活動への協力を呼びかけるつもりだから
詳細を知ってもらうのは
それからでも遅くない。

端的に活動内容を伝えれば
放射能被曝を防ぐ目的で
子と母を福島から避難させようとする
ハーメルン・プロジェクトを
私たちは心と体と物と資金と情報で
支援しようとするものだ。

合い言葉は
「NO MORE チェルノブイリ」
「WE ARE THE WORLD(世界をひとつに)」
である。

年明け早々には
それぞれのホームページも開設する。

このプロジェクトも
画像への挑戦と同じである。
元気と情熱
やればできる。

私たちは
私たちの活動を「サポート」と呼ばずに
「ジョイント(連帯)」
と名づけた。

いささか古めかしいが
「連帯」という言葉には
名言がある。

「連帯を求めて孤立を恐れず
戦って敗れることは辞さないが
戦わずして退くことを拒否する」
私たちの気持ちも同じだ。

乞う ご期待!
乞う 連帯!

WE ARE THE WORLD

小さなものへの気づき

冬は星空がきれい。
冬の空は1等星が多く
しかも星の色も多彩である。
大気の流れが強いため
キラキラ星の瞬きも鮮やかなのだ。

正確な日は忘れたが
皆既月食を見た。
午後11時半くらいだった。
空気は澄み冬の大三角形が広がり
オリオン座の斜め方向に
三日月にまで欠けた月が見えた。
地球の影になった部分は
マットゴールドに輝き
夜空の深さとの色の対比が鮮やかだった。

私はしばし夜空を見上げていた。
播磨灘の海鳴りが耳を打ち
ログハウスのある高台から見える村は
夜の底で寝静まっていた。
収穫の終わった田んぼに
皆既月食の光がぼんやりと届いていた。

淡路島で暮らすと
星や月の変化に敏感になる。
月が満ちてくると
黄みを帯びた光が
強さを増す。
満月になれば
室内で文字が読めるほどになり
明かりに頼らなくても鍵穴が見える。
新月の夜は漆黒の闇である。

季節による星の位置の変化にも
自然に気持ちが動く。
春から秋にかけては
デッキに寝そべり
流れ星を見る。
夜風に吹かれ
酩酊した目で
空の端から端まで
赤くあるいは青く燃えながら
流れ星が渡るのを追いかける。
夜空のどこかには人生の苦さがひそんでいる。

また風の強度や方向などにも
淡路島で暮らすと敏感になる。
気温の変化 季節のにおい 潮の満ち欠け
海の色 雲の形 植物の生育
土の湿り具合 作物の裏と表 大漁不漁
それら小さなものへの気づきが
島の生活である。

節電のために
冷暖房を止めると
移ろいへの感受性が高まる。
そのような気構えの転変は
食事を簡素にし
飢える感覚を取り戻したシンプルライフで
私にはなじみのことだった。

今夏からはじめた私の節電生活は続いている。
想定外のこともいくつか起こった。
最大の誤算は低温火傷であった。
体を温めるためには
湯たんぽと携帯カイロは欠かせない。
しかしながら低温火傷という難敵がいようとは
思いもしなかった。

傷病例を知らなかったわけではない。
また私はそれなりの用心もしていた。
しかし予想外の低い温度と短時間で
火傷は起こる。

私の場合幸い軽症で
もう回復した。
ただ湯たんぽと携帯カイロは
以前ほど頻繁に使えなくなったし
温度も保温用の毛布を厚くするなどして
下げざるを得なくなった。

その代わりに
新たな防寒グッズがいくつか手に入った。
重宝しているのは指先のない手袋である。
これなら手袋をはめたままパソコンが操作できる。
贈り主は私より25歳も若い友人である。
手渡してくれる際に彼女は助言を忘れなかった。
「大事なことは頭と首を温めること。首 手首 足首」
なるほど私にあと必要なのは
足首を温めるレグウォーマーである。
さっそく手に入れよう。

もうひとつの工夫は
風呂の入り方である。
私は就寝前に入浴する。
何か手を打たなければ
火の気のない部屋は凍えんばかりに寒い。

そこで飲みに出る前に
極限まで熱くした湯をはり
家中にその蒸気が行きわたるように
部屋の扉を開け放しておく。

数時間外で過ごし
私が帰ってくる頃には
蒸気で温められた部屋の寒さはゆるみ
風呂の温度も適温になっている。
そしてすぐに入浴。体が温まる。
そうは言っても風呂から上がれば
温もりはたちまち奪われ
10分もしないうちに湯冷めをする。
だから私はベッドに直行する。
9時ごろと就寝時間は早まったが
それもシンプルライフにふさわしい。

ボタンを1つ押すだけで
たちまち快適さを手に入れられる生活に比べ
シンプルライフは手がかかり面倒である。
湯たんぽの湯は沸かさなければならないし
重ね着する服の準備もある。
毛布などによる温度調節もむずかしい。
夕方に外出していれば
風呂の予備注入ができなく
入浴自体を諦めることもある。

しかし手と体と心を使い
寒さに備えることによって
私たちは身のまわりの世界と豊かに関われ
ちいさなものの変化を楽しめるのだ。

私は節電によって
関西電力に協力するつもりなど
さらさらない。
エネルギーを浪費する生活を改め
自然と共に生きる
工夫を凝らした日々を送れば
文明の力では得ることのできない
フシギや驚きを発見することができる。
ちょうど月光で月の流れを感じ
風のにおいで季節の深浅をはかり
星の瞬きで寒さを予感するように。


ものと正面から向き合い
それがもつ最大の力を借りる努力をするほうが
はるかに人生は豊かになるはずだし
原子力に依存しない未来の生活への
第一歩になると私は信じている。

私たちの体の奥深くにまで食い込んだ
手軽に快適を求める
自分の生活スタイルを改めない限り
この社会から原発をなくすことなど
不可能なのだ。



ジイチャンたちの「ALL GRIT」

21年も前に
私は新聞の連載小説を書いたことがある。
どのような経緯でそうなったか
「スポーツニッポン」の予告記事を引いてみよう

「平成元年の秋に、装いも新たなスポーツドキュメントが登場します。
究極のスポーツとされるフットボール。“アメフト”と称される
アメリカンフットボールは人気の『甲子園ボウル』を頂点とする学生リーグ、
社会人、クラブ各リーグの激闘に急増するファンの熱視線が注がれます。
しかし、今年第44回を迎える『甲子園ボウル』もその草創期は、
ミステリアスな謎に包まれています。そんなアメフトの魅力と謎を、
関西の俊鋭作家木田拓雄氏が11月1日から
『激闘タッチダウン アメフトを育てた男たち』として書き下ろします」
と。

この連載は1989年11月1日から
1990年の1月31日まで90回続いた。
挿絵は前回このブログで紹介した
俵万智さんの詩を絵で表し
絵本を出版中のイラストレータにお願いした。

連載話は変な成り行きで実現した。

当時「スポニチ」には
早稲田大学在学中に演劇をやった前歴をもつ
名物文化部部長がいた。
彼は私が好き勝手に書く
作家論や作品論を
何の修正も加えず掲載してくれた。

一方で「甲子園ボウル」は
大会主催が毎日新聞という縁もあり
毎日放送で放送されていた。
平成元年のこの年 
初めての試みとしてテレビ局が
「甲子園ボウル」のポスターを作ることになり
白羽の矢が私に当たった。

おいしい仕事であった。
専門誌「タッチダウン」の広告制作費も含め
今なら70万円くらいが相場だろう。
ギャラはその数倍あった。
いい時代だったのである。

担当者との最初の打ち合わせで
雑誌広告のヘッドコピーを決めることになった。
私はほんの思いつきで
「第1回甲子園ボウルの第1プレーは何だったのかな?」
と担当者に話を向けてみた。
「それを使えばええコピーになると思いません?」と。
「42年前の第1プレーを覚えてる人おるやろか?」
このようなやり取りがあり
結局私がそれを探すことになったのだった。

その夜たまたま「スポニチ」の文化部部長と
飲む約束があった。
この話をすると彼は俄然乗り気になった。
スポーツ紙には「ナイターオフ企画」というのがある。
ナイターがない冬場に必要な紙面として
彼はスポーツものの企画を物色していた。
そこに私の持ちかけたのが
第1回大会の最初のプレーを探す旅である。
このように偶然が重なり
私は生まれてはじめて新聞小説に挑戦した。

第1回「甲子園ボウル」は
同志社大学と慶応大学との戦いである。
小説の形式をとりつつ
42年前の両校選手へのインタビューで構成する
ノンフィクションノベルズでやることに落ち着いた。

1989年9月末から1990年の1月まで
私は東西両校の取材のため
文字通り東奔西走した。
取材ノートをひも解くと
28人に上るOB選手にインタビューを試みている。
相手の年齢や居住地の不案内も含め
思いのほか大変な仕事になった。

入稿の手順は次のように決まった。
まず私が書いた原稿は
イラストレータに渡り
挿絵と共に「スポニチ」の編集部に回される。
校閲など数人の手をめぐり
数日をへて紙面となる。

このような工程で
もし私が原稿を書けなくなったら
多くのスタッフの仕事がなくなり
紙面に穴が開く。
大きなプレッシャーだった。
おそらくそれは主役の役者が
公演中にうける重圧と似たものであったに違いない。

スポーツ新聞の場合
ほとんどサラリーマンが電車で読む。
どうかすると私のまわり全員が
「スポニチ」を読んでいることもある。

つまり私は日々数限りなく
読者の反応を見る羽目になったのだった。
たとえば小説を読みかけ
不意に中断する乗客に私の目は吸い寄せられる。
面白くなかったのだろうかと私は自信を失う。
ナメるようにタイガースの記事を追っていた人が
私の書いた紙面など目もくれず
芸能欄へ興味を移すことがあれば
「その小説俺が書いたんやから読んでよ」
と心の中で叫びたくもなる。
これはきつかった。傷ついた。
そんなわけで連載をしている3ヶ月間
私は電車で目をつむっていることにした。

ストレスが耐えがたくなると
私はサウナに逃げるか
散髪で気分転換した。
ところがある散髪屋で
髭を当たってもらっているとき
ラジオで突然私の名前が呼ばれた。
私は飛び上がらんばかりに驚いた。
「木田拓雄の『激闘タッチダウン』好評連載中」
「スポニチ」のコマーシャルだった。

小説は1947年に開催された
第1回「甲子園ボウル」と
連載当時の1989年の大会を
行きつ戻りつする形式で進んだ。
その1989年開催の第44回「甲子園ボウル」は
偶然にも関学ファイターズと日大の戦いだった。

試合はライン戦で破れ
45対14で関学の完敗だった。
小説で使うため
私は関学・日大双方の主将を
試合後にインタビューした。
日大の主将が「関学はうちの2軍より怖くなかった」
と豪語したのに対して
関学の主将は力負けを認めてこう答えた。
「僕の対面のタックルはハーフタイムで怒鳴られたらしく
目を真っ赤に泣き腫らしてきた。それだけ怒鳴られてもクサらず
何クソと向かってくる精神力に完全に負けてしまった」と。

時は先週の日曜日 2011年12月18日へと移り
第66回「甲子園ボウル」の開催となる。
本年の甲子園球場が舞台の関学・日大戦は
私が取材した第44回大会以来
実に21年ぶりのことである。

奇しくもバックネットからバックスクリーンに向け
縦方向にフィールドを設定する
グラウンドの取り方まで同じだった。
試合結果は24対3で関学が快勝し
積年の借りを返す形となった。

報道された日大監督のコメントは
21年の歳月の長さを感じさせた。
監督が真っ先に挙げた敗因は
「気持ちとプライドで完全に負けていた」というものであった。
「ALL GRIT(すべては気持ちしだい)」をスローガンとして
1年間見事に戦い抜いた関学選手たちにとって
この日大監督の言葉は何よりもうれしかったことだろう。

18日の早朝私は
6時半から観戦しやすい場所を求め
甲子園球場の1号門の前に並んだ。
1、3塁側アルプスはチームのために用意され
すべて自由席だった。

まだあたりは薄闇に包まれていた。
確か21年前の試合当日も
同じ時分にここに詰め
取材をはじめたと私は思い返した。

7時を過ぎ続々と詰めかけてくるファンの多くは
1989年と違いオールドボーイたちであった。
若者はどこに行ったのか
ときおりそんな嘆きが列から聞こえるが
オールドファンたちの
場所取り競争への意気は高かった。

9時の開門と同時に
私たちはいい席目指して一斉に走った。
80代が走った。
70代も走った。
60代も走った。
50代も走った。
オールドボーイたちは「ALL GRIT」で疾走した。
どの顔にも少年の無邪気が輝いていた。
二十歳のすがすがしい朝がそこにあった。

楽しい耐寒生活

今日の最高気温は13度
最低気温は8度の予報である。
かなり暖かい一日である。

私は天気予報が好きだ。
これはO型人間の資質である。
O型はまた睡眠時間にも敏感である。
天気を気にするのも
それが自分の肉体に関わる
重要な情報と考えているからだ。

O型人間は命とダイレクトに対話しているため
肉体のちょっとしたサインにも反応する。
O型の現実主義の源はここにある。

私の耐寒生活が続いている。
先日「電気ご使用量のお知らせ」が来て
値段を調べてみると2922円だった。
対前年同月比 –33.1%とあった。
先月もほぼ同じくらい節電できている。
なかなか好成績でうれしい。

11月23日にブログ「Simple Life Is Best」を書いたあと
私も暖房をせずに冬を越そうと思っている
という人からメールをもらったり
直接会って話したり
またウォームビズ商品を
プレゼントしてくれる友人まで現れた。

私が現在実施している
寒さへの備えを列挙してみる。
基本は先般書いたように
運動としょうがスープだ。

12月に入り風邪を引いたこともあり
寒さ対策はさらに厳重を極めた。
これ以上ないほど完璧な備えである。

新しい耐寒ラインアップで
もっとも強力なのが
携帯カイロである。
これは素晴らしい。

近所の「イズミヤ」で
30個入り720円の携帯カイロを手に入れた。
これは24時間熱が持続する優れもの。
つまり1日に24円で
そこそこの暖がとれる。
同種の「首ホットン」は友だちがくれた。
温熱シートで首を暖めるもので
ゾクッときたときにこれは有効である。

同じ店で見つけた
スタンディング型湯たんぽ
「ドーム1.8型」も悪くない。
寝るときには真冬でも
布団から足を出して寝る私だから
夜に必要というわけではなく
仕事のときの暖房用品として
使用するのである。

湯たんぽの活用を私に教えてくれたのは
仕事上の強力な助っ人のイラストレーターである。
俵万智さんと文字絵本シリーズを出版中(全47冊)の彼に
大きさを聞き忘れたので
私は大きいものを買ってしまった。

薦められたとおり
湯たんぽは膝に乗せ
ブランケットで下半身を覆い温まるのだけど
かなりズッシリきて
どうかすると石を使った
江戸時代の拷問に見えなくもない。
湯たんぽの最大の欠点は
7時間ばかりで湯が冷めること。
それを除けば立派な暖房用品である。

友人たちからはほかにもいくつかの
ウォームビズ商品をもらった。
「部屋テコ」と名づけられたパッチ。
「フットウォーマークッション」が商標の足温用品。
これはジャイアント馬場が履けそうな
巨大な片足スリッパを想像してもらえばいい。
私はそこに両足を突っ込んでヌクヌクしているのだけれども・・・。
そして極めつけは
「デラックス・スランケット」である。

スランケットはおそらく
スリーブ(袖)とブランケットの造語なのだろう。
温かいフリースでできた長方形の毛布に
袖がつき 表と裏にそれぞれポケットがある。

着用してみたが
なぜかしっくりこない。
表のポケットには両手を入れ
裏のポケットには足を入れてください。
とあるがどちらもかなり無理な姿勢になる。
突然気づいたのだが
私は後ろ前に羽織っていたのだ。

この間違いは
はじめて洋式トイレを使用したときの
座り方を想像してもらえばわかる。
和式の習慣で私は友人に教えてもらうまで
扉に尻を向けて便座に腰掛けたのだが
どうにもやりにくい。(この失敗私だけ?)
あのとき味わった窮屈さ
手がしかるべき場所に届かないもどかしさと
まったく同じである。

前後を逆にすれば
快適そのものになった。
きっと楽しい読書ができるだろうな。
ただこれはくつろぐための着衣であるため
仕事着には向かないのかもしれない。

今現在の私の姿を観察して
暖房対策の完璧さを復習してみる。
頭にはニットキャップ(スキンヘッドの私には必需品)
上半身はヒートテックの下着とセーター
下半身は靴下と「部屋テコ」それにズボン
腰ポケットには「張らないタイプ」の携帯カイロ
足は「フットウォーククッション」でヌクヌクし
膝には湯たんぽが乗っている。

私の体を温めているのは
湯たんぽの湯を沸かすときに使う以外
いかなるエネルギーの力も借りない
自然の暖房術である。
これで十分暖かいのだが
読み進むうちにわかった通り
暖が十分に取れるために
室内ランニングで体を温める必要がなくなり
運動量が減っている。
それさえ改善すれば
楽しく冬を越せるはずである。

18日の日曜日は
いよいよ甲子園ボウル。
午後1時半試合開始だが
私はファンクラブ70人分のいい席を求めて
6時半には入場口に並ぶ。

日曜日の天気予報
晴れ時々くもり
最低気温3度 最高気温11度
早朝はかなり冷え込みそうであるが
寒さへの備えは
私には生活の一部であるから
まったく問題はない。

「部屋テコ」を忘れずに履いて
携帯カイロも持参する。
そして元阪神の矢野選手ではないが
「必死のパッチ」で応援して
日大を粉砕しよう。

甲子園ボウルの勝利こそが
楽しい耐寒生活の仕上げとなる。

空にスバル 地に歌声

早や12月。
1日には神戸ルミナリエがはじまった。
阪神大震災犠牲者の鎮魂と
神戸の再生願ってスタートした催しも
本年で17回目を迎えた。

私自身ルミナリエを見に行くわけではないが
すっかり神戸に定着した光の祭典は
私たち地元民には歳時となっている。
ルミナリエがはじまると
混み合う神戸を敬遠しがちになり
満員電車にうんざりし
冬を彩る華麗な光のショーが
師走のせわしなさの新たな演出者となる。

2日は京都で忘年会があった。
2005年「ピースボート」で
105日間の船旅を楽しんだ同船会で
会ははや7回を数える。

北海道・静岡・名古屋・石川・福井・京都
奈良・大阪・兵庫・広島・山口・長崎・熊本から
総勢22名が集まった。
翌3日は有志で福井にまで足を伸ばし
越前蟹を食べた。
うまかったー。高かったー。

翌日の4日は
私にとっての12月最大イベント
「甲子園ボウル」出場を決める
「全日本大学選手権 西日本地区代表決定戦」
という長ったらしい名前の試合があった。

その試合日に
忘年会を入れたことで
私は仲間から顰蹙を買った。
ダブルブッキングには理由がある。

もともと「甲子園ボウル」は
ファイターズが所属する関西1部リーグの覇者と
関東の1部リーグ優勝校による東西大学王座決定戦であった。
ここにかなり実力差のある地方大学にも
参加資格を与えようということではじまったのが
長い名前の決定戦であった。

関西では、九州・中四国・北陸・東海の
各リーグの優勝校がトーナメント戦を行い
今年は東海代表の中京大学が
関西リーグチャンピオンであるファイターズの
対戦相手となった。
つまり絶対負けない相手の試合だったから
私はこの日の試合を失念し
忘年会と蟹ツアーを決めた(と言い訳した)。

この間の事情を7月29日のブログで
私は次のように書いている。

「もうひとつ私には
1年を通して
大事な野球とフットボールのスケジュールがある。
(中略)
9月 野球がクライマックスシリーズに向かうころ
秋本番のフットボールシーズンが開幕する。
1年で私がもっともエキサイトする季節だ。

私の母校(中退だけれどそう呼ぶ)KGファイターズは
隔週で7試合を戦い
関西リーグの頂点を目指す。
9月から12月までのこの興奮の14週間は
ほとんど1日で過ぎ去る感覚である。
オープニングゲームでの快調な滑り出しを祝い
チーム状態に一喜一憂する間もなく
雌雄を決する最終戦を迎える」と。


本年もこの言葉通りに推移したが
今年は最終戦で昨年苦杯をなめさせられた
立命館大学を圧倒し
「甲子園ボウル」への切符をほぼ手中にした。

大詰めの「ROAD TO KOSHIEN BOWL」を書いてみる。
10月29日 関西大学戦   17対3 
11月13日 京都大学戦   12対3 
11月27日 立命館大学戦  37対7 
12月04日 中京大学戦   55対6 

最終試合が代表決定戦であるけれど
この点差を額面通りに受けたとしても
中京大学との力の差はあまりにも大きい。

福井から京都に向かっているとき
ファンクラブのメンバーからメールが入った。
神戸で祝勝会をしているので
そこに顔だけでも出せというものだった。
もちろん私は喜んで参加した。

11名の参加者のうち
私が3番目に若いという
とてつもなく高齢化した集まりだった。
それでも(私を含め)オールドファンは意気軒昂で
会がはねたあと
会場から最寄り駅まで
校歌を歌いながら歩いた。
「歌を歌いながら夜道歩いたなんて小学校以来や」
と元気に吼える者もいた。

この過密スケジュールに加え
12月5日には
旅関係の雑誌から
原稿の依頼を受けて打ち合わせ。

12月6日は
首都大学のテキスト制作に向けた会議。
12月7日は
ある飲食店を取材するために
名古屋まで出張した。

12月8日
福島県で放射能被害から
子どもを守る活動をしている「ハーメルンプロジェクト」を
いかに支援するのかを話し合うための集まりの予定。

12月9日は
「ハーメルンプロジェクト」代表の
志田さんの淡路島への避難を実現するために
淡路市の企画部の部長に会ってもらうつもりだ。

12月18日の甲子園ボウル当日まで
このような過密なスケジュールがビッシリ詰まっている。
時間がたつのが早いはずだ。
みるみるふけていくのも当たり前なのだ。

しかしながら
22年ぶりに甲子園の地で
古きライバル日本大学と手合わせする
甲子園ボウルは楽しみである。

それを勝ち抜けば
来年の1月3日には
社会人NO1との頂上対決である
ライスボウルがある。

祝勝会のあと校歌を歌いながら見上げた空に
スバルが鈍く輝いていた。
ファイターズのブログの作者に倣い
私も清水辰夫(シミタツ)流に言わせてもらえば
「空にスバル、地に歌声」となろうか。

スバルを仰ぎつつ
この先私の残り少ない人生で
何度甲子園ボウルを観戦できるのか
という思いが心にわいた。

そう問うた私の気持ちは
答えがどうであれ
妙に清清しかった。

たとえその可能性がゼロであったとしても
この問いのうちには
「ないものではなく、あるものを数える」という
私が好きな精神が息づいているように思えたのだった。

あと5回。
甲子園ボウルを応援に行けたら
私の人生は素晴らしかったと言える。
贅沢な願いではあるけれど・・・。

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