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つづく・・・・・・

昔松下昇さんという人がいた。
過去形で語るのは
1996年に亡くなられたからである。
松下さんは神戸大学のドイツ語の先生だったので
松下先生の方がふさわしいのだろう。

先生嫌いの私が珍しく(というよりは唯一人)
好きになった先生であるから
よけいのことそう呼ぶべきなのだけれど
私はいつも松下さんと呼んでいたので
その形を変えないでおこう。

松下さんの死を知ったのは
新聞の訃報によってであった。
1996年5月22日の水曜日
「毎日新聞」朝刊の紙面を一部引き写す。

「60年代後半から70年代にかけて
神戸大学教養部(当時)の“造反教官”として
知られた元講師(ドイツ語)、松下昇氏が
今月6日午前10時15分ごろ
神戸市の道路上で急性心不全のため亡くなっていた。
60歳だった」

この新聞記事を読んだとき
私の頭に郵便ポストにもたれ
穏やかな微笑を浮かべ
息絶えた松下さんの姿が浮かんだ。

その2日前に
私は松下さんからの封書をもらっていた。
消印を確かめると5月4日の午前中であった。
私宛の手紙をまさに投函したとき
松下昇さんは発作に見舞われ
そのまま絶息したに違いない。
私は勝手にそう想像したのである。

松下さんが亡くなったのは
阪神大震災の1年4ヵ月後。
女優の沖山秀子さんが死んだのは
今年の3月 東日本大震災の10日後である。
共に新聞の訃報欄でその死を知った。
死因までがそろって心臓のアタック。
偶然なのだろうが気持ちがざわつく。

松下さんを振り返るきっかけとなったのは
前回のブログでアルバイトのことを書いたからだ。
押入れの資料を探しているうちに
そごうの袋に整理した
松下さんの著作物と手紙に行き当たった。

70年代~80年代にかけ
大学を懲戒免職された松下さんと私は
その頃共にアルバイトで生計を立てていた。
彼の年収は60万円くらい。
私はその4倍はあったはずだ。

「木田さんはいいですね」と松下さんは
いつもうらやんだものだ。
私をネズミの駆除に雇う会社があっても
東大卒の大学教授であり
著名な詩人でもあった松下さんに
同じアルバイトをさせる会社はなくて当然である。
その差が年収に現れた。

私と松下さんが
どちらも経験した唯一の仕事は
たこ焼屋だった。
私の仕事場はフードコート。
松下さんの場合は自分が教える神戸大学の構内で
勝手に開店した「自営業」であった違いはあるのだけれど・・・。

松下さんは多くの著作物を残した。
しかしながら彼は
それを書籍化することを放棄した。
黒板にチョークで書き残こされた警句
わら半紙に書かれた表現集 
ガリ版刷りのドイツ文学評論
壁に落書きされた詩。
それらが松下さんの選んだ媒体だった。

出版とかけ離れた形式をあえて選択しながら
松下さんが表現したものはいずれをとっても
日本で最先端の思想であり 詩であり
批評群であった。

松下さんは徹頭徹尾詩人であった。
頭の先からつま先まで
何気ないつぶやきから意味深いメッセージまで
読書をすることからトイレに行くことまで
彼のすべては詩心に貫かれていた。

彼の表現は難解だと言われていた。
しかし私は一度もそう思ったことがない。
私にとって松下さんの表現は
平易で心地よい言葉に誘われ
そのあとにつき従ううち
深い森に迷う感じに似ていた。

松下さんの表現の主調音は無邪気さである。
彼の作品はおもちゃ箱をぶちまけたような
カラフルな多様性に彩られ
子どもの遊び心が満ち満ちていた。
だから彼の作品を読むものは
決まって驚きを経験する。

先に延べたそごうの袋の中から
死の直前に松下さんが送ってくれた
作品集の一部も出てきた。
松下昇さんは阪神大震災に関連した文で
早くも原発における労働の問題に触れている。

さすがと言うべきか
初出は1989年であるこの原発への論考は
現在においてさえ
もっとも本質的に原発労働の意味を解明している。
それを引いてみよう。

(1) 情報を含む技術や原理や構造や操作について
任意の人に等距離に解放されていない場合は
原則として否定的にとらえる。
(2) 社会総体に必要と認めうる技術を用いる場合には
全ての人が対等に交代で仕事につく。仕事のやり方や内容に
異議が出た時には 中止して討議する。
(3) 現段階で最高の技術と認めうるものの成立過程を
他にありうることなる原理~体系の成立過程から
相対化する場を恒常的に作る。  


松下さんは(2)において
もし私たちが原発を推進したいのなら
被爆の危険を原発労働者だけに押し付けるのではなく
私たちも原発の現場に立って
同じリスクを共有すべきと説いている。

この松下さんの考えを
原発を生んだ私たちの世代責任に言及する
京都大学原子炉実験所助教小出裕章さんの主張に結び
「原発労動記(著:堀江邦夫)」の紹介にしたかったのだが
またしても私は書きすぎてしまったようだ。

同じ手を使いたくないのだけれども
また私の好きな「つづく」で逃げさせてもらおう。
ということで
「つづく・・・」
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アルバイトジプシー

復刊された「原発労働記」を読んだ。
この本の原本ともいうべき
1979年刊行の「原発ジプシー」を
私はどこかで読んだ覚えがあった。
それでも記憶があやふやなため
友だちから借りて読むことにした。

本を開くと既視感があった。
確かに以前に読んだことがある・・・。
さらに読み進むと確信に変わったばかりか
なぜこの本を読むことになったのか
その経緯まで思い出したのだった。

20代から30代前半にかけて
私はアルバイトで生計を立てていた。
私がやらなかった仕事はないと思えるほど
ありとあらゆる仕事に手を出し
それを周囲に自慢していたのである。

忘れられない仕事がいくつかある。
地震の予知能力を自負するオーナー経営の
会員制電話会社の仕事。
「会員様には地震が起こる前に電話で知らせます」を
売り文句にした会社であった。

神戸で地震があると思えなかった私たちは
社長の言葉をまじめに受け取らなかった。
そしてサギまがいの勧誘が苦痛であった。
しかし時期のズレを除き
慶応大学哲学科卒のオーナーの予言は
見事に的中したのだった。

1995年に阪神大震災が起こったとき
私は神戸の中心街にあったその会社を
真っ先に見に行ったものである。
社屋は見る影もなく倒壊していた。
私が勧誘した会員たちは
社長からの電話で救われたのだろうか。
私はそのことを知りたかったけれど
会社と連絡のつけようもなく
真相は今もってナゾである。

ゴム製のネズミ ヘビ ゴキブリなどの
おもちゃを作る仕事も忘れがたい経験である。
生来不器用な私は
着色が必要なヘビやネズミを作らせてもらえず
ゴキブリ専門に回された。

仕事は簡単だった。
鉄板上の金型に茶色の液体を流し込み
ゴキブリを焼き上げていくだけである。
仕上がった製品を
私は座席の後ろの空間に放り投げる。

1日の作業を終えて振り返ると
何十万匹というゴキブリが
背後にうず高く積み上がっている。
おもちゃといえども
この光景は一見の価値があった。

その前後で私は
違法にコピーされたらしい
戦時中の特高警察の弾圧ぶりを示す
「特高月報」という稀覯本を販売したことがある。
ホストまがいの接客業をしたのもそのころだ。

2階にまで達する鋼鉄製の円筒にボロを詰め
その中に体ごと飛び込み
人間の体重で固めたダストを販売する
船舶サービスの会社の作業員。
航空機の車軸の検査員。
幼稚園の宿直。
植木屋 映画のエキストラ タイ焼き屋。

いやまだまだある。
精神病院の看護人 週刊誌ライター 甲子園球場の売り子
ストリップ劇場の座席修理屋 夜逃げ専門の引っ越し業
バーテン 広告の調査員 キャディー ゴミ収集業務助手
スーパーマーケットの深夜専門の清掃員。 

中には危険な仕事もあった。
船舶のくん蒸を専門にする会社で
「ホストキシン」という劇薬を使い
船中のネズミやゴキブリを殺す仕事だった。

作業は2人で1組になり
最下層の船倉からホストキシンを投げ入れ
上層階目指し順々にくん蒸していくのである。

劇薬なので防毒マスクは欠かせないが
その会社にあったのは
米軍から払い下げられた古いマスクばかりで
吸収缶につながるホースに穴が空いていたり
呼気の弁が故障していたりだった。
そんなマスクに当たれば
きわめて危険な目にあう。

私も防毒マスクの不具合で気分が悪くなり
船底からハッチに伸びる垂直の階段を
自力で上れなくなったことがあった。
みんなに助けられて
何とか大事にいたらなかったが
危うく命を落とすところだった。

くん蒸に先立って
真っ暗な船倉に潜り込み
懐中電灯を頼りに
ネズミやゴキブリのフンを探さなければならない。
フンからネズミの存在が確認されると
出港は許可されず
くん蒸が義務づけられる。
そのためこのフン探しは大事な作業である。

ゴキブリとネズミのフンはよく似ている。
先が切れてなくてとがっているのがネズミ
切れているのがゴキブリと判断をする。
一寸先も見えない広い船倉の所々に
ホタルのような弱々しい灯りが浮かんでいる。
懐中電灯を手にしたいい年の大人が
ゴキブリかネズミかを判別しているのだった。

アフリカや南米など熱帯地方を行き来する船では
船員たちが密輸目的で船倉にさまざまな動物を隠している。
真っ暗闇の船倉で
見たこともない鳥が
奇声を発して飛び回っている様は
あまり気持ちのいいものではない。

あるとき私は船倉で
何かにつまずいて転んだ。
懐中電灯を向けると
丸く切り取られた光の中に
巨大なニシキヘビが
浮かび上がった。

私は気を失わんばかりに驚いたが
ネズミ退治をするこの会社では
このようなハプニングは
日常茶飯事だった。

ここまで書いたような与太話を
私は友人たちに好んでやった。
そして「俺がしたことのない仕事はない」と
豪語していたのだろう。
そんな私の鼻っ柱を折ってやろうと
ある日友人の一人が「原発ジプシー」を
貸してくれたのだと思う。

再読であるにもかかわらず
私は「原発労働記」に大きな衝撃を受けた。
私にとってショックだったのは
これほど印象深いレポートを
「既視感がある」程度にしか
覚えてなかったことである。

この衝迫の弱さは
1979年当時の私と原発の関わりを象徴している。
悔恨込めて言えば
私もまた科学万能の神話に囚われていて
私が影響を受けた思想家の言う
「科学の進歩によって起こる弊害は
さらに科学を進歩させることで取り除くしかない」
との言葉を信じ
原子力発電への傾斜も
その文脈の中で許容していたのだと思う。

私はこのブログで
「原発労働記」の紹介をしたかったのに
私のアルバイト遍歴をたどるうちに
こんなに長くなってしまった。
これでは「原発ジプシー」ではなく
「アルバイトジプシー」である。

仕方がないので
次回にでも続きを書こう。
これも与太話であるけど
物語の最後にそっと置かれる
「つづく」という文字が
なぜか私は好きなのだ。
ということで・・・
「つづく」

SIMPLE LIFE IS BEST

今日の神戸の最高気温は
17度と予想されている。
昨日より3度高い。
10度くらいの温度なら
暖房などまったく不要である。

この夏冷房の不使用を誓い
パーフェクトの成績だった。
冬も暖房器具を
使わないでおこうと思っている。

私をよく知る人は
寒がりのあなたには無理
と決めつける。
確かに私は暑さには強いが
寒さからよく風邪を引く。

しかし寒さだって
子どものころは平ちゃらだった。
どんな寒い日でも学校へ行くとき以外は
靴下などはいたことがなかった。
この遠い日々を取り戻したい。
自然に任せて生きるシンプルライフを通じて
もうひと華咲かせるのが私の願いである。

この夏を乗り切れたのは
シャワーのお陰である。
一日中すべての窓を全開にし
風を呼び込み
汗はかくだけかいて
堪えられなくなれば
時間に関係なく水を浴びた。

冬の場合もう少し緻密な作戦が必要だと思った。
そこで今週の月曜日から
冬バージョンの寒さ対策をスタートすることにした。
ポイントは運動とショウガである。

私は数年前からジムに通わずに
仕事の合間のトレーニングが日課である。
午前中は仕事に専念し
12時過ぎのストレッチを皮切りに
午後は30分~40分仕事を続け
5分ばかりブレークの時間を利用し
インナーマッスルを中心に体を鍛える。

それぞれの運動は
かならず腹筋と組み合わせることにしている。
たとえば腹筋を100回やったあとに
スクワットを100回というようにである。
運動は6種類あるので
腹筋は最低でも1日600回できる。
トレーニングの締めは逆立ち2分間だ。

この日々の運動に足踏みランニングと
フォワードランジを加えて
冬のメニューにしようという計画を立てた。

足踏みランニングは
その場をわずかに前後するだけの
いわばシャドーランニング。
効果があるのかネットで調べたら
普通のランニングに比べ
1.5倍のカロリーを消費するとあった。

ただし効果を得たければ
床と水平になるまで足を持ち上げよとある。
私は運動にはスピード感を求めるので
アドバイスを無視して
走りに緩急をつけることで
同じ効果を追求することにした。

30秒ややスピードをつけて足踏みをし
残りの30秒はゆっくりとやる。
時間は10分から20分。
月曜から1日に1回
寒いと思ったら走りだす。
15分もすれ体はポカポカ。
滑り出し順調である。

もう一つのフォワードランジは
下半身を鍛える運動である。
直立した姿勢から
どちらかの足を大きく前に踏み出し
太ももが床と水平になるまで
腰を深く沈めるという動作を
両足で交互に行うのである。

私の事務所は3LDKの広さがある。
この運動は時間を決めてやるのではなく
仕事に必要な何かを
別の部屋に取りに行くときなどに
このフォワードランジを使って移動することにした。

事務所内での1番長い距離を測ってみると
14メートル超あった。
部屋から部屋へ腰を沈めては伸ばしで移動するのは
かなりおかしな光景に違いない。
でも構うものか。
効果は期待できるのだから・・・。

もうひとつはショウガスープ。
最良の趣味は料理と言っていいほど
私は食事を作るのが好きである。
ゴマとショウガとセロリは
私の3大好物。
それを使ってスープを作ってみた。

どのような料理かレシピ風に書く。
材料
ショウガ 大1個
セロリ 葉の十分ついた大振りのセロリ1本
鶏の手羽先 10本程度
ショウガとセロリは
長めに切って準備しておく。

調味料
黒コショウ
鶏ガラスープ
パクチー(粉末)
パセリ(粉末)
クレィジーペッパー
マジックソルト
ナンプラー

以上をすべて炊飯器に放り込み
適当に水を加えて スイッチオン。
あとは炊飯器が勝手に働いてくれ
20分もすればおいしいスープの出来上がり。
体が温まること受合いである。
ポイントはナンプラー。
ただし入れすぎないこと。


このようにスタートした寒さ対策。
極寒の2月 3月を乗り切れるかどうか。
冷え込みに堪えられなければ
小さな石油ストーブくらいは使おう。
しかし電気暖房とは一生手を切る。
SIMPLE LIFE IS BESTである。


シンドラープロジェクト

震災が起きて8ヶ月が過ぎた。
阪神大震災におきかえれば
1995年9月17日が8ヶ月目である。

年表をくって当時の様子を追うと
神戸に本拠地を置くオリックスが
イチローの活躍でパリーグを制覇している。
また私が住む西宮では残っていた2カ所の避難所が閉じられ
西宮から避難所がなくなったとの記事があった。

前月の8月 六甲ライナーが運転を再開。
寸断された神戸・阪神地域の交通網が
これで218日ぶりに全線復旧したという報道も目につく。
神戸でさえ復興はまだ本格化していない。
8ヶ月を迎えた東北の現状は
致し方ないとも思える。

阪神大震災に見舞われたころ
私は今の会社をやりつつ
友だちと共同経営の教材会社にも籍を置いていた。
震災が起こった翌週から
土日の休みを利用し
私は自社教材をリュックサックに詰め
被災地の塾をくまなく巡り教材を届けた。

その活動は8ヶ月目の9月でも
まだ続いていたはずだ。
私は被災地のほとんどすべてを巡り歩いた
数少ない人間だったに違いない。

東北大震災において私が被災地を訪れたのは
だだの一度である。
私の友人などは5月に現地に赴き
6日間ボランティアをし
その経験を最近本にさえした。

何かしなければと焦りつつ身動きがとれず
思い悩んでいたのだけれど
1本の電話で
バラバラに存在していた点が結実し
何をすべきかのヒントを得た。
大袈裟に言えばこれぞ黙示か!

まず散在する点について述べてみよう。
もっとも遠くにある点は母方の祖父が
福島県の会津に生まれたことにある。
1867年の戊申戦争で会津藩は破れ
祖父は他の会津藩士と共に
青森県の斗南に配流された。
その地で祖母と出会い
神戸に移り住みやがて母が生まれる。
これが第2の点である。

新たな点は父方から出現する。
父の父 つまり私の祖父が
1880年代に長野の造り酒屋の家から出奔し
横浜港に停泊中だったアメリカの貨物船の船倉に
潜り込んだところで生まれる。
密航に成功した祖父は
時を経て牧師となり結婚し
サンタバーバラで息子(私の父だ)を授かる。
それが4つ目の点となる。

5つ目の点はアメリカで育った父が
家族と共に神戸に現れ
母親と出会い結婚するところに起点を置く。
それから数年後日本はアメリカと戦端を開き
英語がいわば母語の父はNHKに雇用され
「東京ローズ」の一員として
対米謀略放送のアナウンサーとなる。

私が登場するのは次に現れる点においてだ。
父の勤務地の関係で私は東京生まれ。
1944年 敗戦の1年2ヶ月前
私は練馬区で生を受けた。

7つ目の点は敗戦に関わる。
日本占領に備えフィリピンで駐留していた連合軍は
対米謀略放送に携わったアメリカ生まれの裏切り者は
すべて戦犯として逮捕すると発表する。
逮捕に怯えた私たち6人の家族は
貨物列車(祖父の貨物船に続いて)を乗り継ぎ
鳥取まで逃げ延び
そこで身を潜め逃亡者の生活を送る。
これが8番目の点となった。

長い前置きで私が何を言おうとしたのか。
それは私の遺伝子に刻印された
離散する者 流浪する民の末裔としての心根が
福島の第1原発の事故で
離散を余儀なくされている被災者の心へ
自然に寄り添ったと言いたいのだ。
しかもそこは母方の祖父のふるさとでもあるのだから・・・。

これから先に散在する点は
いずれも3月11日以降に生まれてくるものである。
放射能の被曝から子どもを守るため
福島から子どもを逃がす運動を主催する
「ハーメルンプロジェクト」の志田さんとの出会いが
9番目の点。

志田さんを私につないだのは
私も経営者の一員だった
先に述べた教材会社の2代目社長である。
経営者だった夫婦は共に大学の後輩で
母親の死と父親の長期入院によって社長を継いだ彼は
広島に投下された原爆による被曝3世でもある。
これが10番目の点であることは言うまでもない。

数日前にその志田さんから電話をもらった。
2人の幼い子を含めた家族を
岡山に逃がし彼自身は郡山に留まり
「ハーメルンプロジェクト」の活動に忙殺されている。

その彼も8ヶ月におよぶ離散生活に疲れ
そろそろ家族と一緒に暮らしたいと訴えた。
彼の言葉が機縁となり
志田さん家族が淡路島で生活できないか
彼らの家や仕事をみつけ
学校などの受け入れ条件を
私が調べるという約束が生まれた。

この私の思いつきには
前回のブログでも書いた
沖山秀子さんの死への経緯が悔恨となって
11番目の暗い点を穿っているのだった。

点の因縁話はここまでとし
志田さんの電話と相前後し
件の2代目社長からメールをもらい
添付の文を読み感想を聞かせて欲しいと言われた。
それは2001年に行われた「公共哲学全体研究会」の講演記録で
講演者は今田高俊さんという大学の先生だった。
その講演記録を読むうちに
私の中で志田さんとの約束が
具体的な形を取りはじめたのである。

講演は公共的な事柄に
私たちはいかに関わるのかという内容。
「公と私」を結ぶ中間集団を作る必要が説かれていた。

いくつかの具体例の中で
私の関心を引いたのは
中間集団としての世代についてであった。
世代の責任は家族にとどまることなく
次世代の子ども全体を育て 文化を育み 
子どもを教育することにあるとの主張に
私は共感した。

真っ先に私の頭に浮かんだのは
団塊の世代とも全共闘世代とも言われる
私たちの世代についてであった。
1997年に上梓した「秋の苦い光」に
私は「全共闘は家族を作ったか」という副題を与え
この講演者と問題意識を共有していた。

1970年代 社会に出た私たちの世代は
子どもたちに自分が信じる価値観を伝える義務を果たさず
公共性への参加を死滅すべき国家への荷担と考え
選挙の投票さえ恥じて行わなかった。

社会全体に関わる問題
たとえば原発建設に反対する市民運動を
私たちは微温的だと冷ややかに眺め
私生活さえ安泰なら回りで何が起ころうが
見て見ぬフリをしてきたのだった。

その結果私欲を極限まで肥大させた社会が生まれ
度を過ぎた快楽に必要なエネルギーとして
原発に依存する社会を作ってしまったのではないか
との思いを痛切に抱いたのである。

家庭を構えはじめたときに担えなかった義務を
せめて孫世代で果たせないだろうか?
そのためには原発事故で
未来を奪われようとしている子ども世代
孫世代をその被害から守ろうとしている
「ハーメルンプロジェクト」を
外から支える活動を起こそう。
私の思いは自然にそう流れていった。

公共哲学とこの活動については
日を改めこのブログで詳しく書くとして
「ハーメルンプロジェクト」を支援する活動については
とりあえず要点だけでも書いておきたい。

活動の目的は
福島から逃げ出す子どもと家族の受け入れ先を
全国で見つけ条件を整えることにある。
被災地の福島まで行かなくても
それぞれのいる場所で活動ができる。

私が参加を呼びかけたいのは
団塊の世代と若者である。
私たち団塊の世代が媒介者となって
大学生たちと社会をつなげたいと思っている。

やることは今いる地域の情報を収集し
長く生きた人間の財産である人脈を生かし
逃げてくる子どもたちのために
家を見つけ 家族の仕事と学校を探す。
その上で地方公共団体 企業 大学 個人 民間組織から
支援を引き出すことである。

いい名前はないかと考えた結果
「シンドラープロジェクト」が浮かんだ。
もちろん仮称ではあるが
ユダヤの子どもたちをシンドラーが救ったように
私たちも福島の子どもを多く救援できればと思う。


そして神戸

東日本大震災は
友人だった沖山秀子さんの死と
結びついている。

いろいろな因縁が重なり
亡くなる2週間ばかりの間に
近年になく頻繁な接触があった。
地震もその因縁の一つである。
原田芳雄さんの死に触発された
7月21日のブログで
私は次のように書いた。

震災直後に沖山さんから電話があった。
原発事故の実態がよくわからないころで
彼女はもう東京に住めないとこぼし、
だったら淡路島に来るようにと私は勧めた。
どのような経緯だったか忘れたけれど
私は今ブログで連載中の小説の話をし
彼女は珍しくそれを読みたいと言いだした。
そこで私は連合赤軍事件を主題にした
「ある狂気の物語 新しい人あの橋を渡れ」を彼女に送った。

しばらくたって
今度は私の方から彼女に電話してみた。
「原稿着いたけどまだ封も切ってへん」
彼女は前より
いっそう落ち込んだ声で言った。
前年の暮れに
階段から落ちて骨折して以来
彼女は極度に元気をなくしていた。

電話を切る直前に私はこう励ました。
「小説家をやめても、女優をやめても
歌手だけは絶対に続けよ。あんたの天職やからな」と。
すると彼女はいつものように豪快に笑いこう答えた。
「木田さんはずっとそれを言い続けてきたね」
これが彼女との最後の会話となった。

それから数日後
私は彼女の死を知った。
震災後わずか10日。
彼女は波乱に満ちた生涯を閉じた。

私が彼女の死を知ったのは
新聞の訃報欄であった。
「沖山秀子さん(女優・歌手)21日不整脈のため死去。65歳
告別式は家族で済ませた」
メディアは簡単にこう報じた。

沖山さんと震災の結びつきが強いのは
阪神大震災の記憶と重なるからかもしれない。
彼女は神戸が大好きで
その神戸が壊滅的な被害を受けたことに
心を痛めていた。
「あのすばらしい神戸が・・・」
と言いかけ彼女は決まって
大きな目から大粒の涙をこぼした。

角川書店から出した
「秋の苦い光」は
阪神大震災を背景にした小説である。
発売直後に購入してくれた沖山さんから
電話をもらった。

電話をとるなり
彼女の含み笑いが聞こえてきた。
「ありがとう、私をモデルにしてくれて。
ちゃんと死なしてくれたしね」
彼女は皮肉たっぷりに言った。

この小説の登場人物に
森脇美樹という名のオペラ歌手がいる。
彼女は公演の合間にピアノの生徒をとっていて
主人公の娘がピアノを習っている設定だった。
美樹は震災で倒壊した家の下敷きになり
イタリア人との間にできた息子と共に死んでしまう。
沖山さんはそのことをからかっているのだった。

この本が書店に並び
どのくらいあとか忘れたが
友人たちが出版記念パーティーを開いてくれた。
会場は西宮北口駅前の市場。
商店街と共に全壊した市場に建てられた
酒屋の仮設テントに100名ばかりも
友だちが集まってくれた。

思いがけず沖山さんも
東京から出席してくれることになった。
あたりは瓦礫の撤去も終わり
更地が遮るものもなく広がっていた。
その茶色い景色の中を
足を引きずりながら沖山さんが歩いてきた。
私たちは抱き合って再会を祝った。
この時も「あんなすばらしい神戸が・・・」と言いかけ
彼女は私の胸の中でしみじみと泣いた。

パーティーには
友人がフィドロを弾く
ブルーグラスのバンドも来てくれ
彼女は一番好きな曲の一つ
「テネシーワルツ」を
ダンスする人のために歌ってくれた。

昨日の11月10日(今気づいたが11日の前日だ)
神戸で映画を見た。
どこかで食事をしようと歩いていると
「1周年記念でいろいろサービスしています」
と若い女性からチラシを渡された。
「どこも決めてへんから あんたとこにする」
私はそう答え彼女のあとについて行った。

感じのいいイタリア料理店で
ほとんど期待していなかった
料理もなかなかのものだった。
一杯目のワインは無料だったので
ワイン4杯 ビール1杯を引っかけ
私は上機嫌で店を出た。

駅に向かいいくつか角を折れるうちに
沖山さんと通ったことのある
ピアノバーの前に出た。

沖山さんと大学が同期のバンド仲間が
ママをする店で
沖山さんはママのピアノを伴奏に
そこでミニコンサートを開いたこともあった。
躊躇しながら店の前を通り過ぎ
やっぱり何かの縁と思い直し引き返した。
それが大正解だった。

「沖山さん死んでしまったね」
カウンターに腰を下ろす間もなく
私は切り出した。
死亡記事の扱いが小さかったので
ママが知らないのではないか
と思ったからだった。
「彼女 放射能を嫌がっていて
それなら淡路に来たらエエやん
と勧めたのにその前に死んでしまった」
と私は続けた。

「ええっ? 淡路行く言うてたのは
あなたのとこやったの?」とママが驚いた。
「もうがりがりに痩せて半分くらいの体重になり
そんな体で淡路なんか無理やと止めたのだけど・・・」
「ママは東京にまで見舞いに行ったん?」
「いいやあ、神戸よ。ホテルから電話があって
会いに行ったら淡路に行く 淡路に行くとうわごとみたいに」

「ええっ?」今度は私がビックリする番だった。
「彼女神戸まで来てたん?そうなんや神戸に戻ってたんや。
・・・・・・そいで神戸で亡くなったん?」
「そう翌日ね。・・・春日野道でお葬式した」

私はあまりのことに愕然となった。
沖山さんは東京で死んだと思っていたのだ。
彼女が東京に住みはじめて30年近くになる。
練馬区で幸せな家庭を築き
一人息子まで授かった。
前年に階段から落ちたのも東京の家であるなら。
通院しているのは鎌倉だと言っていた。
私の錯覚には理由があった。

私の想像とは違い
彼女は自殺でなく病死であったが
彼女の最期については触れたくない。
この私の気持ちをママが代弁してくれた。
「元気なデコ(沖山さんの愛称)だけ
心にとめとくほうがいいよ。その方が幸せ」

確かにそうだと私は思った。
私も弱った沖山秀子なんか想像したくない。
40キロまで痩せた沖山秀子なんか見たくない。
真正直で心がきれいだった沖山秀子。
豪快かつ繊細。
ブランディーで胃ガンをぶちのめした
沖山秀子のままでいい。
カラカラ笑う彼女のことだけを忘れないでおこう。

店ではバンド仲間の即興演奏がはじまった。
鎮魂の思いなのか
ママが選んだ曲は「テネシーワルツ」だった。
彼女は大好きな 大好きな神戸で死ねたんだ。
そう思うと少し救われた気持ちになった。
ボロボロになった体を引きずり
這ってでも神戸にたどりついた根性は
いかにも彼女らしい。
死ぬまで自分らしさを貫いた女性だった。

そのような思い出に耽る私は
カウンターの一番端っこで
「テネシーワルツ」を聞いている。
「木田さんは隅っこが似合う人やなあ」
彼女の名言は数々あるけど
ある日言われたこの評が
私の一番お気に入りだ。

何の脈路もなく
「・・・そして神戸・・・・・・」と私はつぶやいた。
ライムの効いたラムロックの苦い味が
彼女との数知れない思い出に入り交じった。



風力発電その後

風力発電建設を行う事業者である
関電エネルギー開発から説明を受け
2週間になる。

問題はまったく解決していない。
次に向けて新たな一歩を
踏み出さなければならないのに
ショックのあまり私はその場にうずくまったままだ。
それほどひどい対応だった。

私は関電エネルギー開発に対して
14項目+2項目
計16項目の要望を出した。
そして文書と口頭での回答を求めた。

要望書を出したのは9月16日。
説明の場が設けられたのは10月23日。
1ヶ月以上時間がかかった。
当初より2項目追加したのは
淡路島で台風襲来による崖崩れがあり
北海道では風力発電の火災事故があったためである。
そのような事故への対処方法も知っておきたかった。

時間が経過したのと
彼らの誠実な対応を促すべく
10月6日と10月13日に
私は関電エネルギー開発に
メールを送った。
以下は13日に送ったメールの一部である。

「私たちはこれまで何度か要望書を出し
23日に初めて回答をいただくことになります。
騒音の実験、シャドーフリッカーなど
すべての要望に対して
100%完全な回答を求めます。

町内会の合意と私との関係、
景観、資産価値の低下などについても
決して逃げることなく完全な回答をお願いします。
回答に納得できれば
私はその場で合意いたします。

淡路市には23日に行われる予定の
私たちへの口頭および文書での回答が終わるまで
工事を再開しないように要求しています。

その一方で
すでに7号機の工事ははじまった
との情報もあります。
これらを勘案すれば
要望書への回答が
おざなりになる恐れがあります。

そのようなことは許しません。
何度も言いますが
完全な回答携えて
おいでください」
と。

10月21日に関電エネルギー開発から
「文書で全部回答できるわけではないが
誠心誠意お応えできるようにいたします」
との電話があった。
その言葉を信じて私は23日を迎えた。

彼らが持参した回答は
わずか3通。
1通は町内会と締結した合意書。
もう1通はシャトーフリッカーの模式図
それと私の家から風車がどのように見えるかの
モンタージュ写真だった。

16項目の要望に対して
わずか3点の回答。
不誠実な対応に向かいかけた怒りが
モンタージュ写真で吹っ飛んでしまった。

そこには全身を露わにそそり立つ
2号機 3号機の風車を前景に
あちらの頂きから胴より上を
こちらの稜線から顔や頭の先をのぞかせる
7号機全部の風車が写っているではないか。
私は思わず絶句した。
「ここから全部の風車が見えるわけ」
「ええそうですね」
と相手は澄ましたものである。

聞けば町内会との合意形成においても
風車によってどのように景色が変わるのかを
写真でも口頭でも示さず
だまし討ちのようにして
強引に賛成を取り付けたとわかった。
このようなことが許されていいのだろうか。

私はあまりよく知らないが
たとえば部屋を借りるときに
「重要事項の説明」というのがある。
家を借りた者が
不利益を被るおそれのある大切なことを
貸す側にはあらかじめ説明する義務がある
という法律であったように思う。
風力発電建設などの巨大建築物の場合はなおさら
景観による地域住民の不利益に
特段の配慮があってしかるべきだと思うのであるが・・・。

関電エネルギー開発は
3人の担当者を送ってきた。
50代後半 40代半ば 30代前半。
年齢は違っても物腰は同じ。
彼らは慇懃で人をくった答えを繰り返した。

彼らの拠り所は法令で定められた数値。
今回の建設を例にすれば
騒音問題さえクリアーすれば
何をやってもOKという立場である。

景観のように
ガイドラインはあるが
数値による規制がないものの場合には
7機もの巨大な人工建築物を
海沿いの景勝地にたてても
いかなる支障もないと考えている。
彼らにとってコンプライアンスとは
数値がすべてであって
法令を成立させた精神ではないのだ。

幾度となく彼らが無意識に発した言葉には
猫なで声に隠された
偽りのない彼らの本音が表れていた。
「私たちはこのように面倒なことをしなくても
建設できるのですが 何とか皆さんの声に耳を傾け
要望をお聞きしている誠意だけはお認めください」と

これがどれほど傲慢で 
人を人とも思わず
自社の利益のためなら何でも許される
という心情の告白であるのかということに
彼らは気づきもしないのだ。

私には彼らがそのセリフを吐くたびに
彼らの内心の露骨な声が聞こえた。
「本来お前たちが何をほざこうと
法令さえ守っていれば風車は建設できる。
それなのにお前たちの苦情を聞いてやっている。
それだけでもありがたく思え」

この思い上がった企業意識が
16項目の必死の訴えにも
わずか3つの回答ですまそうとする
恥知らずであり
私企業の飽くなき利潤追求を
公共の利益への奉仕
と読み替える図々しさである。

佐賀県の玄関原発再開においても
私たちと同じ嘆きが
県民の間から聞こえてきた。
「何をどう訴えても
私たちの不安をわかってくれない。
彼らは耳を傾けるフリをしながら
私たちの願いや意思を無視し
自分たちの計画を押し進めようとする」

私は自分で予想もしなかったほど
関電エネルギー開発の仕打ちに
傷ついていることがわかった。

彼らが答えなかったすべての要望に対して
回答を要求するばかりでなく
詐欺同然の手口によって得られた
町内会との合意に対しても
重要事項の説明違反によって
白紙撤回を要求すべきであるのに
私の行動は重い。

こんなところで挫けてたまるかと思いつつ
あまりにも強大な相手に
めげそうにもなる。

このような自身の気弱さに加え
東北の被災者の現状に照らせば
騒音被害くらい
どうってことないではないか
との内心の声も聞こえてくる。
このような思考は
生産的でないと知りつつ
私だけ恵まれようとすることへの恥ずかしさが
どこかで働き
私の行動を鈍らせる。

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